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無為な価値が光ってこそ
無為な価値が光ってこそ、地域資本主義であり、幸せの社会である。
地域通貨は、無為な価値を光らせるために、人々の間をめぐる。
私はそう思っています。
今回はそんな「無為な価値」について、私の思うところをうにゃうにゃ書いていきます。
「無為」
文字の通り、なんの為でも無いもの/なんの為にもならないことです。
ex:夏だし花火しよう。昼間っから飲むビールうめぇ。今日の夕日綺麗じゃん。暑いしアイス食べたい。
ただただ素朴な気持ちで、なんのためでもない、最近の私の無為です。
コスパやタイパ(?)なんて一切考えない、合理性とか利益とか成長とか、そういう類いの発想ではありません。
そういえばいつのまにか、
無為であることが、無駄であるような虚しさをふと覚えるときがあったり。
素朴な自分ごとの感想が、価値のないもののように感じて他人のレビューに頼るようになったり。
大人になっていく間に、社会で働くようになった間に、資本主義社会に馴染んでいく間に、
私たちは、私たち自身の無為を虐げてしまっているのかもしれません。
(少なくとも私はそのように感じ、あえて無為について考えざるを得なくなっています。)
では、冒頭においたように、
こうした「無為」は、なぜ「地域資本主義」や「幸せの社会」や「地域通貨」にとって不可欠なのか。
それは、無為こそ、自分ごとであるからです。
社会の為を思うわけではなく、
会社の為でも、お金の為でも、能力の為でも、
SNS映えの為でも、見栄の為でも、
未来の自分の為でも、過去の自分の為でもない。
ただただ素朴に私自身がいま思うこと。そこには、なんの理由も意味も必要ありません。
社会の為を一生懸命考えても、それは「社会ごと」で考えているのであって、「自分ごと」ではありません。
さらにいえば、
「自分ごとで考える」とは、自分の”為”になるように考えることではなく、いま自分の思う”無為”を信じてあげるということなのではないかと私は捉えています。
いくら自分の未来のため、成長のためと、自分ごとで考えたつもりになっていても、無為に「やってみたい」「楽しい」「好きだ」と思えなければ、自分ごとであるとは言い切れないのです。
このとき価値は、モノゴトに対して”つけるもの”から、私自身が”いだくこと”に変わります。
自分ごとで考えることは、抱いていることを内在的に問う行為であり、内発的な無為に向き合う時間のことを指すのではないか、と。
(内在性や自分ごとについては再三にわたって語っているので、ここでは割愛します。)
そして、過去の文章でも強調してきた「自分ごとの価値」「使用価値」も、「無為な価値」と言い換えることができ、
自分のなかのピュアでラブリーな「無為」を信じられるような社会こそ、私の目指す「幸せの社会」です。
次のnoteでは、
その人自身の抱く「無為」が、その人の個性であり、
その地域自身の抱く「無為」が、その地域の個性になります。
ということについて考えたいと思います。
(筆が進まなかったら変えるかも)
一旦おわり。