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5.下川町に学ぶ地域社会資本(下川レポート)

皆様ごきげんよう、慶應義塾大学4年・SMOUT編集部下川町支局レポーターの小川功毅です。(企画の概要:https://smout.jp/plans/7329#project-report-8332

今回のレポートは、下川町の驚異的な“人のつながり”についての考察です。

・下川町の驚異的な“つながり”

これまでのレポートでもお伝えしていますが、下川町での滞在において最も印象的だったのは、「人のつながり」です。
紹介の連鎖が止まらず、一度つながりが生まれてしまえば、水面にひと粒の水滴が垂れたように、人とのつながりが同心円状に広がっていきます。
気軽に集まってご飯を食べたり、山菜パーティをしたり、焚き火をしたり、みんなで歌ったり、野菜を育てたり、ドライブに行ったり、薪を割ったり、スペイン語を習ったり…。老若男女問わず、地域の様々な方と出会い、語らい、楽しい日々を過ごさせていただきました。

地域の豊かさを考えるとき、こうしたつながりの豊かさを面白法人カヤック代表の柳澤氏は「地域社会資本」と定義しています。地域の豊かさは、「地域経済資本(財源や生産性)」、「地域社会資本(人のつながり)」、「地域環境資本(自然や文化)」という3つの要素で構成されているという考え方です。(参照:『鎌倉資本主義』プレジデント社 p.25)
例えば、東京は世界トップレベルの総生産を誇り、「地域経済資本」が豊かな地域です。対して下川町は、人のつながりが豊かであり、「地域社会資本」に富んだ地域であると言えるでしょう。


・ゲマインシャフトとゲゼルシャフト

地域社会資本(人々の関係性)についてもう少し掘り下げて考えるために、社会学者のテンニエスによる「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」という概念を参照します。社会の歴史的な発展(近代化)に伴って、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ移行したと捉えられています。

まず、ゲマインシャフトとは共同体組織と訳され、人々のつながり自体を目的とした、感情的で親密な組織のことです。血縁に基づく家族や、地縁に基づく村落などがこれにあたります。私の体験した下川町におけるコミュニケーションも、ゲマインシャフト的であったと考えています。

対して、ゲゼルシャフトとは機能体組織と訳され、利益追及を目的とした個人による、人工的な契約に基づく組織のことです。近代的な多くの企業や、大都市に暮らす私たちなどがこれにあてはまるでしょう。こうした組織におけるコミュニケーションは、事前に合意した目的のみが目指され、その範囲外で交流することは意図されていません。例えば、職場においては“仕事”という目的が設定されており、プライベートに介入すれば煙たがられてしまったり、ハラスメントになってしまったりします。洋服屋さんでは“服”についてだけ会話をし、スポーツジムでは“個々の体を鍛える”という目的であるために会話すら許容されないこともあります。家族であっても、“家庭”にまつわる話をすることが良しとされ、仕事の話は好まれないということもあるかもしれません。

大都市におけるゲゼルシャフト的な関係性に対して、精神科医の熊代氏は、以下のように述べています。

私たちにはコンビニで好きな商品を値札どおりに買う自由も、スポーツバーで知り合った他の客とスポーツ談義をする自由も、婚活サイトで婚活する自由もあるけれども、まったく見知らぬ他人に唐突に話しかける自由、媒介物抜きのコミュニケーションを試みる自由は持ち合わせていない。
熊代亨「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」イースト・プレス p.223

私が下川町で体験した人間関係は、東京のような社会契約のロジックに基づいたゲゼルシャフト的なコミュニケーションではなく、地域という共通性に基づいたゲマインシャフト的なコミュニケーションであったと思います。所属も全く異なる人が気軽に集まって、一緒に焚き火をしたり、持ち寄ってご飯を食べたり、野菜を育てていたり。お店でも、品物以外の世間話、個人的な生活や志の話をしたり。そこには、何らかの合意や目的というものはなく、ただ下川にいるという共通性によって結ばれた地域的なつながりがありました。


・代替可能な人間関係

このレポートにとっては蛇足の内容ですが、ゲゼルシャフト的な現代の人々の関係性における脆弱性についても記しておきます。
以下、この節では「熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』イースト・プレス」、「小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書」および「菊池理夫『日本を甦らせる政治思想』講談社現代新書」を参考にさせていただきます。

ゲゼルシャフト的な現代の人々の関係性を象徴する要素の一つとして、人的流動性が挙げられます。交通の発展により土地を自由に移動できるようになり、通信の発展により遠くの人や会ったことのない人とも容易にコミュニケーションできるようになりました。

対して、昭和以前の社会(農耕社会)においては、生まれた家や身分、地域によって仕事や人間関係を強制されていました。地縁や血縁が、人々の関係性を拘束していたと言えるでしょう。

現代の私たちは、地縁や血縁の拘束を受けることなく、人間関係や仕事を自由に選択することができるようになったように思えます。では、私たちは本当に自由で開かれた人間関係を享受しているのでしょうか。

結論から言えば、私たちは地縁や血縁の拘束を受ける代わりに、資本主義や社会契約の拘束を受けるようになりました。実家の仕事を継いだり、知り合いのコネで雇用を斡旋してもらったりすることは減りましたが、代わりに就職/転職エージェントなるサービスが介入しています。結婚も同様に、地縁や血縁による紹介(お見合い)ではなく、出会い系アプリや結婚相談所、婚活パーティなどのサービスが介入するようになりました。

こうした背景には、人的流動性の高い社会において、人間関係は代替可能になったということがあるでしょう。
現代社会では、職業や友人、恋人など、付き合う相手を自由に選ぶことができます。特に首都圏には無数の人間が集まっているので、人間関係の選択肢はほとんど無限に近くなります。そして、自分が自由に付き合う相手を選べるということは、同じように相手も自由に付き合う相手を選べるということでもあります。
仕事においては、欠員が出たとしてもある程度の基準を満たせば代替可能ですし、友人関係に関しても合わない人と無理に付き合う必要はなく、同じ趣味を持つ人とSNSなどを通じて交流したり、少し離れた場所にいる友人に気軽に会ったりすることもできます。このような代替可能な関係性を、よりスムーズに斡旋してくれるのが、資本によるサービスです。

そして、“選ぶ/選ばれる”人間関係が一般的になると、モノの需要と供給のように“人間市場”が構築されます。流動性が高い人間市場のなかでは、取り替えられる可能性にビクビクしながら関係性を構築せざるを得ません。また、人々は人に選んでもらえるような自我を形成しようとします。ダイエットをし、整形をし、映える写真をアップし、自分の顔に加工をし、綺麗な部分だけを相手に見せるようになります。揺らぎ続ける自我への不安から、自分探しやキャリアデザイン、新興宗教などに走る傾向もあるでしょう。

さらに、“人間市場”のなかで、たくさんの人間関係を獲得する人がいる一方、まったく人間関係が持てずに孤立してしまう人もでてきます。こうして出来上がるのが、都心における孤独という現象です。人が多いのにも関わらず、“人間市場”において評価の低い人は孤立してしまいます。SNSにおいては、これがフォロワー数として数値化され、視覚化されています。


ゲゼルシャフト(社会契約)とゲマインシャフト(地域共同体)を、「人間という存在をどのように捉えるか」という人間観に沿って理解することもできます。

ゲゼルシャフトは、人間はバラバラに存在し、何のつながりも持たないという、個人主義的な人間観に基づいています。つながりのない個人たちは、明確な目的を設定し、事前に合意することによって組織を形成します。自由意思に基づいて、契約をしたりしなかったりすることができます。
対するゲマインシャフトは、人間とは言語・歴史・伝統・コミュニティ・倫理(善悪)などを共通に与えられた存在であるとする、共同体主義的な人間観に基づいています。共通性をもとにして、自らの帰属するコミュニティをともに形成し、より良きコミュニティのために活動します。なお、帰属性や共通性は外部から強制されるものではなく、自我がコミュニティによって形成されるという側面に立脚するものです。

そして、社会は近代へと発展するたびに、個人主義的な側面を強め、ゲゼルシャフト(社会契約)の人間関係へと移行してきました。


・自由意志による地域選択の上に、地域共同体を形成する

私は資本主義や社会契約を否定し、地縁や血縁の拘束に戻るべきだと考えているわけではありません。地縁や血縁の拘束から自由になった今もなお、私たちは自由を享受できていないし、多くの人が豊かな人間関係を築くことができていないのではないか、という問題意識を持っています。

私が目指すのは、「自由意志による地域選択の上に、地域共同体を形成する」ということです。
交通や通信の発展により、遠くの地域へ移動したり、情報を得たり、コミュニケーションしたりできるようになりました。私たちには、様々な土地の特色や文化を知り、地域やコミュニティを選ぶ自由があります。自分の実現してみたいライフスタイルを思い描いて、好きな地域で暮らすことのできる選択可能性があるのです。そして、このような地域の自由選択を促進するのが「移住」であり、その地域におけるゲマインシャフト的な人々の関係性を促進するのが「地域通貨」であると私は位置付けています。(移住者も多い下川町は、地域の自由選択という面でも先進的であると思います。)

地域社会資本に話を戻しますが、ゲマインシャフト的な地域のつながりというのは、地域社会資本に大きく寄与するものです。そして、地域という共通性に基づいたコミュニティを、地域に取り戻そうとするのが「地域通貨」です。おすそわけをしたり、お手伝いをしたり、みんなで焚き火をしたり、一緒にご飯を食べたり。そこには特別な合意や目的は必要ありません。地域で楽しく暮らすこと、より良い地域をみんなでつくること。そのための仕組みとして、潤滑油として、私は「地域通貨」を想定しています。

もちろん、下川町のようにわざわざ仕組み化しなくても実践している地域もあるでしょう。であれば必要ありません。そうした土地を見習って、自分たちの地域に反映させることを目指したいと思っています。


・①自分の地域を好きになる

では、私が下川町のどういった点を見習いたいと考えているのか、以下において簡単に述べさせていただきます。

まず一つ目は、とにかく地域が好きであることが大切です。誰しも、好きではない土地でつながりを作ろうとは思いません。その土地が好きで思い入れがあるからこそ、その地域で暮らすことを楽しもうと思えたり、地域のつながりをつくろうと思えたりするでしょう。この土地の山が好き、川が好き、山菜が好き、人が好き、食べ物が好き、スキーができるから好き、運転しやすくて好き、温泉が好き…なんでも良いと思います。下川町の人々は、皆それぞれに下川の好きなところを持っていました。

好きなところがあると、その魅力を周りの人に共有したくなります。一緒に山菜を採りに行ったり、温泉に連れて行ってくれたり、川に行ったり、知り合いの面白い人を紹介してくれたり、どんどん地域につながりが生まれていくのです。

また、好きな地域だからこそ、その地域をもっと良くしたい、盛り上げたいと思うようになります。そうすることで、バラバラの個人が何らかの目的のために組織するのではなく、地域のみんなが地域のみんなのためにコミュニティを運営するようなゲマインシャフト的なつながりがつくられていきます。

・②みんなで鍋を囲もう、焚き火をしよう、山菜パーティをしよう

2つ目に、下川ではみんなで何かをつくる共同作業の機会が多かったように思います。
もてなす/もてなされるという関係性ではなく、みんなで持ち寄ってみんなでその場をつくるということです。

みんなで一緒につくるなかで、対話が生まれ、連帯感が生まれ、“われわれ”という意識が生まれていきます。この“われわれ”の意識こそが、地域への帰属性や愛着として醸成されていきます。

そして、もし地域をつくる側に回るのであれば、至れり尽くせりの“いい幹事”になるのではなく、鍋・焚き火・山菜パーティのような、みんなで作る場をたくさん設計することが必要なのだろうと思います。地域通貨で、つくる人を増やしましょう。

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