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窓 第一回
1
「ほら、また窓をあけっぱなして!」
「だって暑いじゃないか」
「扇風機があるでしょう」
「それでも暑いよ」
こんなやりとりのくりかえしだった。
新しい母はどういうわけかその窓を開けるのを嫌った。ぼくの部屋には窓はひとつしかないので、それを開けとかないと夏は暑くていられないくらいなのに、彼女は目につくたんびにぱたりと閉めて、鍵まで掛けてしまうのだ。部屋にぼくがいようと、友達があそびにきていようと、おかまいなし。これにはぼくも閉口した。
「なぜそんなにこの窓ばかりめのかたきにするのさ」
とぼくがきくと、彼女は急にまじめな顔をして
「だってこの窓は危険だわ。いつもこの前を通るたびに、あたし吸い込まれそうになってしまうもの」
と、さも重大な秘密を打ち明けるようにいうのだった。
みんなこんな彼女を見て「おまえんとこのおばさん変わってるな」とか「ほんとにおもしろいおかあさんね」とかいった。しかし、ぼくは内心、変わってるどころじゃないと思っていた。
中秋の名月の日のことだった。
ぼくは学校の帰りに寄り道して、月見のとき使うすすきをさがして、家の近くの野原をうろついていた。けれどもなかなか手ごろなやつが見つからない。どれもしっぽがまだ貧弱でこどもみたいなのばかりだ。
いらいらしながら草をかきわけかきわけしていると、不意にぽんぽんと肩をたたくものがある。振り返るとエプロンすがたの彼女が立っていた。
「何してるの、こんなとこで?」
「すすきをさがしてるのさ」
ぼくはわざとぶっきらぼうにいった。
「すすき?」
彼女はしばらく首を横に倒して考えていたが、やがてとんと手を打つと
「ああ、すすきならたくさんあるところを知ってるわ。教えたげる」
といって、ぼくの手を取り、さっさと先に立って歩きだした。その歩き方の速いことといったらなかった。ぼくはほとんど地面に足を着けていることができなかったくらいだ。
彼女が案内してくれたのは、同じ野原の中でも、まだぼくが一度も足を踏み入れたことがない場所だった。
昔の工場の跡なのだろう。コンクリートの土台や鉄骨が、ところどころ草の間から赤茶けた顔をのぞかせていた。
その一画に、みごとな穂をそろえた背の高いすすきの一群があった。まるできつねが千匹いっぺんに逆立ちしたような光景だった。
「こりゃすごいや!」
ぼくは思わずうなった。
「すごいでしょう」
彼女は胸を張った。
「こどものころはよくここで遊んだものよ。月の夜はすすきの穂が銀色に光って、まるで海のまんなかにいるみたいだったわ」
ぼくはかばんの中からペーパーナイフを取り出して、中くらいの背丈のすすきを三本切り取った。あまり大きいのはなんだか気味悪かったからだ。
「でも、そのすすきどうするの?」
家へ帰る道すがら、彼女が思い出したようにいった。
「今夜は十五夜じゃないか」
「そうだったかしら」
「月見のとき供えるんだよ」
「つきみ?」
ぼくは驚かなかった。彼女の頭の中はアインシュタインみたいにからっぽなのだ。
ぼくはひととおり月見の何たるかの説明をしてから
「今日はたぶん、とうさんが町から月見団子を買ってくるから、それといっしょにお月様にお供えするんだ」
といった。
彼女は少し青ざめた顔をしてふうんといった。そしてそれきり家に着くまでひとことも口をきかなかった。
2
彼女がぼくの家に来た日のことを、ぼくははっきり覚えている。
それは朝からどんより曇った、七月にしては妙に肌寒い日だった。
その日、ぼくの新しい母は、まるで気まぐれな紙飛行機のようにぼくの家に飛び込んできた。
いつものようにぼくが机に頬杖ついて、窓からぼんやり外をながめていると、いつもの時間に父が町から帰ってきた。
そしてその背中から二メートルほどはなれて、白い影法師がひとつふわふわと歩いてくるのが見えた。そいつは父が玄関の戸を閉めるまぎわにするりと家の中にすべり込んだ。
ぼくが奥の部屋から顔を出すと、ずんぐりむっくりした父と並んで、すらりと背が高い白いワンピースを着た女の人が、玄関に立っていた。その女の人は、部屋から顔だけ出しているぼくに気づくと、にやりと笑った。
「ただいま。おまえの新しいおかあさんをつれてきたよ」
父は自分でもびっくりしたようにいった。
次のセリフとして、シナリオどおりに
「こんにちは。あなたのことはおとうさんから聞いてよく知っているわ。今日からあたしがあなたのおかあさんよ」
などと彼女がいっただろうか。
とんでもない!
むしろその目はこういっていた。
「やっと見つけたわ。こんなところにかくれてたのね。あちこちずいぶんさがしたけど、とうとう見つけた。もうどこへも逃げられやしないわよ」
新しい母はお世辞にもよくできた一家の主婦とはいえなかった。
はじめの三日間こそ、掃除、洗濯、食事のしたくと、わりとこまめにこなしていたが、だんだんメッキがはげてきて、ひとつふたつと放り出し、一週間たつころにはほとんど何もやらなくなってしまった。
かわりに彼女の関心は、家の中のがらくたに向けられた。
父の趣味だったのか、商売のためだったのかよくわからないが、ぼくの家には使いものにならない骨董品や外国の変な道具がたくさんあった。
それこそ洋の東西南北時代を問わず、世の中の役に立たないものばかりよくもこれだけ集めたものだ。けれどもそのほとんどが、骨董的価値など一文もないただのがらくたにすぎなかった。
ただ、彼女にとっては、それはぜんぜん別のものに見えたようだ。
「ター坊、きてごらん。見つけたわよ」
ぼくがピタゴラスの定理に頭を悩ましているというのに、彼女は新しいがらくたをひとつ見つけるたびに、ぼくを呼びつけた。
だいたいぼくの名前はタクヤというのに、彼女ははじめからター坊とぼくを呼んだ。まるでずっと昔からぼくのことを知っていたみたいに。
「そんなものどうするのさ」
ぼくはわざとばかにしたようにいったものだ。
「地球儀みたいだけど、ちがうわね。何かしら、これ。あら、ずいぶん重いのね」
「天球儀じゃないか。そんなことも知らなかったの。空の星の位置を知るんだよ」
「すばらしいわ!」
「星なんか見ないくせに。それにずっと昔のおもちゃみたいなやつだよ、それ。使いものにならないよ」
ぼくは断言するが、彼女の頭の中身は小学校一年生なみだった。
国語、算数、理科、社会に関することで、彼女が知っていてぼくが知らないということはなかった。もしかしたら、地球が太陽のまわりをまわっていることすら知らなかったかもしれない。
驚くべきことに、洗濯機のまわしかたさえ知らなかったのだ。
一度だけ教えてやったが、次の日には倉庫の奥から引っ張り出してきた洗濯板を愛用していた。もっとも気が向いたときだけしかやらないので、彼女の洗う分量の十倍くらいは、ぼくが全自動洗濯機を活用してさばいていたのだ。
だいたい彼女はとんでもない電気製品オンチだった。洗濯機にかぎらず、掃除機、電気ガマ、電子レンジ、全部だめ。とても現代人とは信じられない。彼女が来てからというもの、家の中にはずいぶん昭和ひとけたの家庭用品が増えた。
ただ、彼女がまったくものを知らなかったかというと、そうでもない。
彼女は変なことをよく知っていた。
たとえば、東の森の楠木の大木の下から三番めの枝には、ここらでいちばん長生きのムサという名のモモンガがいて、今でもときどき月の明るい夜には空飛ぶすがたを見かけることがある、とか。
またたとえば、正常寺の境内で飼われていたオオカミがきのう死んだ。和尚さんが何も知らないでスーパーから買ってきたドッグフードばかり食べさせていたからだ。こどもたちも三日に一度は会いに来てたのに、さぞがっかりするだろう、とか。
またまたたとえば、大田黒時計店のゴロはとなり町の親戚の家にもらわれていったらしい。これで町の犬の数は全部で二十二匹になった。ゴロは特別鼻のきく犬だったのでほっとした、とか。
夕ご飯を食べながら、彼女は平気な顔してこんな話ばかり持ち出した。
いったい町の犬の数が一匹減ろうが増えようが、そんなことぼくたちに何の関係があるだろう。ぼくはあきれて一言もなかった。
電気製品の他に彼女の苦手なものがもうひとつあった。
それは窓だった。
おかしな話だが、彼女は開いた窓の前に十秒と立っていることができないのだ。特にぼくの部屋の窓は大の苦手にしていた。
大きくて、家中でいちばん見晴らしのいいその窓は、両方開け放すと、たしかに世界の半分くらい吸い込んでしまいそうに見えた。その光景は彼女をかぎりなく不安にさせるようだった。
たまにぼくの部屋を掃除するときでも、窓は閉めっぱなしで、もうもうとほこりのたちこめるなか黙々とはたきを振りまわしていた。
彼女にいわせると、ぼくの部屋の窓はとびぬけてあぶないそうなのだが、いったい何が、どうあぶないのかということになると、その説明はあやふやだった。ただ、まんざら冗談とも思えない表情で、くりかえしその窓の危険性をうったえるのだった。
「だってほんとにあぶないんだもの。いつもこの前に立つたんびに、あたしびりびり感じるのよ。ほら、今だって背中がぞくぞくしてるわ。ちゃんと窓ガラスを閉めててもこうだもの。あんたみたいに一日中窓を開けっぱなしてすわっててごらんなさい。今にどんなことになるか」
その顔があまり真剣なので、こっちまでつられて胸がどきどき高鳴りだすほどだった。
しかし、ただでさえ蒸し暑いさなかに、たったひとつしかない窓を一日中閉め切っていられるわけがない。
プラス、心の底のどこかでは、わざとこいつのいうことなんか聞いてやるものかという反抗心が、そろそろと鎌首をもたげはじめていた。
父の帰りは遅かったので、自然と朝から夜にかけての長い時間を、ぼくは新しい母とふたりきりで過ごすことになった。
人見知りのひどいぼくは、はじめのうちすっかり緊張してしまった。なるべく彼女と顔を合わすまいと、自分の部屋にこもりきりでいた。
しかし、彼女は窓がちゃんと閉まっているかどうかたしかめようとして、ノックもしないでしょっちゅうぼくの部屋に入ってきた。
ぼくはほとんどノイローゼになった。
けれど日がたつにつれて、ぼくもだんだん彼女が家にいることに慣れてきた。
不思議なことに、未知のものにたいする警戒心がうすらぎ、好奇心へと変化してゆくにつれて、心の底の彼女にたいする反抗心は、日毎、加速度的に増大していった。
ぼくは何かにつけて彼女に反旗をひるがえすようになった。また、ほとんどの場合、ぼくのほうに理があったことも事実だった。
彼女のいうことやることはみんな二歩も三歩も常識から外れていた。ひょっとすると百歩くらい外れていたかもしれない。
にもかかわらず、理屈では完璧に彼女を打ち負かしたと確信できるときさえも、本当はやっぱり彼女のいうことのほうが正しくて、ぼくはただ机上の空論をこねまわしているにすきないのだという、幽霊みたいなうしろめたさにとらわれるのだった。
ひとしきりの議論のあと、彼女が部屋から出てゆくと、ぼくはなんとなく胸をどきどきさせながら、そっと窓を開けた。とんでもない怪物が、今にもその窓から飛び込んでくるような得体の知れない不安におののきながら。