伏線回収はお好きですか?
舞台やドラマ・映画を見ていると、必ずと言っていいほど「伏線回収」がありますよね。
「伏線回収」という言葉はいつ頃から使われ始めたんでしょう?
「伏線」という言葉は昔からあったと思いますが、「伏線回収」というワードは、SNSで考察投稿が盛んにおこなわれるようになった近年に定着したもののような気がします。
今日はこの伏線回収についてお話したいと思うのですが、皆さんは、伏線回収、お好きですか?
私は大好きです!
プロの作家さんたちやよりレベルの高い劇団の方々の作品と自分の作品を並べるなんておこがましいのですが、私も自分の作品の中で伏線回収は結構やります。
私がよくやるのが、「最初笑えていたものが、後から重いシーンのカギに変わる」という手法です。昨年の作品「フクシュウの時!」では、ギャグシーンで丸めて捨てられた紙が、後になって、えぐり取られた眼球のメタファーになるということをしました。
ここに並べて書くのはおこがましいのですが、三谷幸喜氏の「鎌倉殿の13人」における「武衛」などもこの構造であると言えます。
で、ここからが本題なのですが、最近SNSや本屋さんの宣伝文句で「伏線回収が凄い!」みたいな言葉をよく見かけます。「最終回のこの伏線回収震えた」みたいな。
私はこれに何か違和感を覚えるんですよね…。
単刀直入に言うと、伏線回収は手法であって、それが前面に出るのはおかしいのではないか?ということです。
作り手は「伏線回収の巧みさ」をもって受け手を感動させるのではなく、「伏線回収という技法によってより効果的に表現されたもの(状況・心情等)」をもって受け手を感動させるべきだろうと私は思っています。
つまり、伏線回収そのものに対する感動が受け手の感情の大部分を占めている場合、その作品は本物ではないということなのだろうと考えています。
ミュージカルにおけるリプライズも同じです。
「ここでこの曲が繰り返されるのか!」という感動は勿論ありつつも、それが受け手の心の中央に居座ってはいけないと思うのです。心の大部分を占めるのは、あくまで「リプライズによって効果的に表現された存在に対する感動」でなくてはなりません。
「エリザベート」では「私だけに」のメロディが繰り返されます。
↓ご存じない方も多いかと思いますので、参考程度にどうぞ。
たとえば1幕ラストのリプライズですと、同じメロディが繰り返されていることに対して勿論感動しつつも、最も大きな感動は、今のエリザベートの決意や覚悟、16歳の頃から重ねてきた苦悩に向けられたものですよね。
この時受け手は、「16歳の時と同じメロディが流れるのか!だから比較か!歌声も変わって大人になったな!」なんてわざわざ意識しなくていいわけですよ。リプライズがあまりに巧みであるがゆえに、何もしなくても―つまり巧みさを認識したうえでそれに乗ろうとしなくても―気が付けば、彼女が16歳から重ねてきた苦悩を回想し今の決意に心打たれるという流れに乗せられてるんですよ。
技法そのものではなくて、技法によって際立たされる存在に意識の大部分を向けさせる―これが本物のリプライズであり、伏線回収の在り方だと思います。
ところが最近、ハナから技法そのものに目を向けさせるような売り方、書き方が目に留まります。
時代のトレンドと言いますか、多くの人(特にSNS世代の若者)が求めているものがそれなのだとしたら、商業の世界では仕方のないことなのかもしれませんけれども、上記のような考えを持っている私としては、歯がゆい気持ちを禁じ得ないのであります。
歌の歌詞にも似た傾向がありますね。
その歌詞の褒められる最たる点が言葉遊びの巧みさで良いものかと、疑問に思ってしまう作品もあります。
繰り返しになりますが、買い手がパッと見て分かる凄さを求めているのなら仕方ないんでしょうけれども。
しかし少なくとも演劇は、電子機器の使えない状態で孤独に鑑賞するものですから、私は、分かりやすいワザを見せびらかすことなどはせずに、ワザによって際立つ激しい感情・世界観―つまり中身で勝負したいです。
身一つ心一つで孤独に鑑賞するもので言えば、映画やクラッシック音楽も似ている部分があるかもしれません。
時代逆行型Z世代で申し訳ないのですが、演劇人として、私は「分かりやすさ」「パッとわかる凄さ」に靡いちゃだめと思ってます。絶対に。
これはあるいは、文学部の学生としての矜持なのかも。
いや、国語科教師(来春より)としてでしょうか。
いずれにせよ、私は、芸術は芸術でありつづけないといけないと思っていますから。
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