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判決の人間性を率直に

コラム『あまのじゃく』1952/12/19 発行 
文化新聞  No. 555


地域の利害に分かれる判断

    主幹 吉 田 金 八

 飯能事件の判決があってホッとした。
 1年有余の間、この事件の結末を見ないために何か奥歯に物の挟まったようなはっきりしない気持ちでいたので、これで暴力事件のほうは一切ケリがついたという感じである。
 暴力を振るわれた被害者にしてみれば、何か物足りない感を抱かれる方もおろうが、強盗を働いても執行猶予が通り相場の時代なのだから、高いの安いのと言わずに、一応、暴力を振った者、賄賂を取った者は軽罪にもせよ、たしなめられたのだから、我慢をしていただきたいと思う。
 相場と言うものも、自分本位に考えれば安いものを買っても高かったのではないかと思い、高く買っても安すぎるような感じを持つのは人情の自然である。反対に被告の中には、たとえ執行猶予の恩典に浴したとはいえ、有罪の判決を受けたことに不満の者もあろうし、本当にしんばり棒で鶏小屋を叩いたような者が十か月を言い渡されたり、実際には大変な乱暴を働いておりながらも、姿を潜めて無難に逃げおうせた者もあるなど、不公平は人間のやることで仕方がないが、量刑に不服の者もあることが想像される。
 だが、この際多少の不平不満はあっても、一審判決を以って被告も検事も納得して、暴力事件に関する限りは一応の打ち止めにしたいものである。被告の一部には検察庁の共同謀議と幹部の暴力教唆、公務執行妨害が崩れたのを目して、検察庁の無能呼ばわりをするものもあるが、この事件の特異性として、地域の利害を目的としてその地域の住民が起こした犯罪に関しては、証人、証拠等の収集が絶対と言っても良いほどの困難であることを考えれば、検察庁も最善を尽くしてことに当たったが、所期の目的を達しなかったものと言うべく、その事は検事団のデッチ上げとかミスとか言って非難するのは酷と言わなければならず、むしろ被告側にとっては幸運と解すべきではなかろうか。
 村松判事が私見と称して「男らしく信念に向かって進むように」と判決理由の後に付け加えた事は、決して暴力行為や贈収賄を容認したものではなく、その事は悪いけれども分村運動を合法的に展開することを弾劾するものでは無いことを説明したと解すべきで、裁判長の人間味を取り違えて、信念に基づく事なら多少の法を犯しても構わないと解して、おごり高ぶった気持ちを被告が持つに至ったとするならば、もはや「何をか言わんや」で『暴に報いるに暴を持ってする』内戦状態の出現も不可避となり、法治国家もどこへやらと言うことにもなろう。
 今後、この判決に拍車がかけられて、元加治に猛烈な分村運動が沸き起こるかどうかは問題で、私は今後に関しては世人の予想と逆に、だんだんと下火になっていくのではないかと思っている。
 ともあれ分村してもしなくても、どんなに激しい政治上の争いを展開しても、人間的な憎しみを持ち会うことのないようにしたいものである。
 文化新聞も一時は分村反対新聞と呼ばれたことがあったが、私は明治41年に元加治の仏子に生まれ、当時父親が平仙の本家である平甚の番頭をしていたとかで、その後も父から引き継いで私も機屋を10年ほどやった関係もあり、元加治の人たちとは腹の中まで知り合っていると言う気安さがある。
 だから私の方から分村運動の幹部に個人的な悪感情など湧く訳もなく、本紙は常に公平な観点からこの問題を扱った自信がある。その文化新聞が分村反対と目されて1部の人の憎しみを買ったのは、暴力と贈収賄の不正に対して筆陣を張ったためでもあろうか。私はこの憎しみは新聞人の名誉と思って甘んじて受けた。
 しかし、すでにこの犯罪に関する限りは公明な裁判によって理非曲直のけじめはつけられた。
 兄弟喧嘩に対して慈父は『弟が悪い』と一応たしなめのムチが軽く振るわれたわけである。
 今後は、この問題に関しては元加治も旧町もしつこくこだわらず「一緒にやっていくか」「一応世帯を分けるか」虚心坦懐に相談したらよい。つまらない意地立てこそが今後は無用でありたいと思う。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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