自治警察の存廃(2)
コラム『あまのじゃく』1951/7/1 発行
文化新聞 No. 126
『主権在民』の精神の顕れ
主幹 吉 田 金 八
警察法が改正されて人口五千人以上の市街地町村は自治警察を置くことも、廃止することも住民の意思で出来ることになった。
既に県下各地の小さな町の自治警察は廃止の運命をたどる如き方向に進んでいるようである。面白いことに廃止を望む町が自治警察の後に国家警察本署を誘致したい希望を明らかにしている点で、これらは自治警察の存廃の理由が、単に町財政の負担の軽重にかかっていることを物語るものではないか。
敗戦後アメリカの指導で民主主義的諸制度が与えられたものの、これらはあくまでも与えられたもので、国民の自覚によって獲得したものでないと言うことである。わが国の民主主義発展の過程を顧みれば、国会開設とか納税の高下にかかわらず、何人でも国会議員選挙に参与できる、普通選挙権は伊藤博文、板垣退助の昔から、自由民権の先覚者が、文字通り血と熱で一歩一歩戦い取った果実であった。
これからの国民の諸権利は、その獲得に費やした国民の犠牲が大きかっただけに、いかにも貴重なもので、再び失いたくない気持ちが動くのも当然である。
婦人参政権とか個人の基本的人権、民主的警察、言論の自由とか終戦後大幅に付与された民主主義制度は、その与えられ方があまりにも簡単だっただけに、ありがたみが薄いといった感がある。
さらに国民の認識、自覚の線よりも制度の方が行き過ぎた点もあり、これらが徐々に訂正されることもあり得る。
自治警察は主権在民の精神の端的な存在であり、所在町村に多少の財政の犠牲はあっても存置したい。
自治警察の規模が町村の実情にそぐわない場合の人員、機構の再検討は別に考えたい。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
【このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします。】