人と共に歩む裁判
コラム『あまのじゃく』1963/9/14 発行
文化新聞 No. 4567
裁判は時代と共に、世論を味方に…
主幹 吉 田 金 八
全員有罪か無罪か、死刑から無罪という風に天国と地獄の間を往きつ戻りつした松川事件判決は国民注視のうち、昨日の最高裁上告審判決は検察側の上告を棄却して、全員無罪が言い渡され、永い間の検察官と弁護団の論争に終止符が打たれた。
この判決で打ち出された特徴は「自白のみでは断罪の決め手にはならない」という今までも言われてきたことだが、これが改めて確認されたことであろう。
昔の裁きなら「恐れ入りました」と白洲の砂に首を擦りつけるだけで打首、遠島は即座に執行されて、被告も世間も不思議としなかったのが、これからは犯人が「私がやりました」と自首しても出ても、それを裏付ける証拠がなければ罪にはしようがない。ましてや被疑者として逮捕留置されての取り調べの自白には、テレビ映画等で見られるように「この野郎何を言ってるのだ」位の威嚇は当然伴うもので、気の弱いものならたちまち音を上げかねまいし、こうした自白ばかりでは当てにはならない、自白の信憑性は在来も重視されていたことはいたが、それがハッキリ打ち出されたことも、この判決の特徴と言わねばならない。
また、この事件は裁判批判、大衆行動の的となって問題を賑わし、この判決がそうした外部の圧力に屈したかの印象を与え、これを不満とする声も散見されるが、これは言う方が迂闊であろう。どんな犯罪でも良い弁護士をつけてうまく言いくるめ回せば罪は軽くなるのは決まっている。
検察側に抜き差しならない手落ちがあり、これを巧みにつけば死刑が無罪にもなった例は今までにもないでもなかろう。
また世論、社会の同情というものはどんな裁判にも何らかの形で影響され、死罪が罪一等を減じられて、無期、あるいは有期に、もしくは執行猶予といった量刑に終わることは例が多い。これは昔から大岡の名裁判などと語り継がれていて、古今東西同じことである。
これらの酌量は裁判官が民の声を掬い上げたのであるが、今度の松川事件はこの民の声が少し積極的だったに過ぎない。さらにまた、検察側の不備をつく論調が鋭かったに過ぎず、裁判官も論旨に共鳴せざるを得なかった訳であろう。
いつの時代でも世論は裁判に影響する。松川事件がデッチ上げられた当時には、それに共鳴する人心があったのであり、現在においてはこの最高裁判決に納得する人心にあると言うべきである。
裁判も人と共に、時と共に歩んでいるものであることをこの判決は物語っている。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】