
鬼の目に涙
コラム『あまのじゃく』1963/9/15 発行
文化新聞 No. 4568
子供達との信頼に…手放しの号泣
主幹 吉 田 金 八
先ごろ、日頃回ってくる八百屋さんから、市場に出た缶入りのジュースを安くするから大量に買ってくれと勧められた。 愛媛県の農産協同組合の製品で、明治とか森永とかいう有名メーカーのレッテルでないから買い叩いたものに相違ない。
しかし、私は伊予みかんの本場に戦争中2年ほどいた経験から、むしろ有名商社のものより産地の生産団体の生産した品物の方が生粋であることを知っているから、その勧めに乗った。
しかしあればあり従いで、子供たちが目の敵のように貪ることを知っているから、何もそんなにうんと買うこともあるまい、と量の点では家内にブレーキをかけた。その翌日、女房と娘たちが話し合っているのを何気なく聞いたが、そのジュースを娘の芸事のお師匠さんに送りたいのだが、住所が不確かで送り様がないということである。
そのお師匠さんは、70歳から80歳に近いおばあさんで、ご主人はもともとなく、従ってお子さんもないまま先ごろまで都下の身寄りの下で老後を送っているらしく、それでも永く育った郷里の便りが欲しいところから、かつてお弟子さんであった私の長女が文化新聞を送っていたもので、その人の甥にあたる飯能に住んでいる方から、『おばあさんに送ってもらっている新聞の郵送料』として郵送料に余るほど物が時折、娘のところに届けられていた。
それも「折角だが、この頃は新聞の活字も読めなくなったから、送るのをやめてほしい」とご本人からの申し出もあって、最近は送るのを中止していた。その方からの久方ぶりの頼りであった。
二重封筒の表面の上方に、縮こまったようにこちらの宛名が、裏を返せば、これまた手探りで書いたように発信人の名が書いてあったものの、鉛筆でたどたどしく書かれたものは、国保南多摩病院1号室とだけで、どこの町なのかも我が家の女たちには判断できないものだった。
この人は学問素養が優れており、前に見た手紙など文章規範にかなったもので、私たちの及ぶものでないと感嘆したものだが、この手紙をもってしても老衰の度合いが察せられた。
この宛先では送り様がないと物議しているのを「感を働かせるのが新聞屋の商売ではないか」と、私はその封書の発信局から「都下八王子市国保南多摩病院内で大丈夫、届く」と助言した。
娘たちがこの小包の梱包に手を焼いているのを見て「荷造りはお父さんが名人」と自慢たらたらで結局私がしてしまった様なことになったが、減らず口を叩きながらも、私は長女の優しい気持ちと、老いの身を病院のベッドの上で過ごす身寄り少ない夫人の身の上を考えて、無暗と感傷的になり、せきあげる嗚咽を制し得ないで、しまいには口で笑いながら号泣するというだらしなさを見せ、女房が心配して、「お父さんどうかしたのではないか」と気遣う体たらくを演じてしまった。
私がこんなに感情もろくなったことも、私自身が老境に入った為であろう。平均寿命が延びて55歳の定年を延長しようという時代だというのに、私はめっきり年寄りになってしまった。
私のファンのある女性は「文化さん、もっと胸を張って、シャンと歩きなさい」と激励してくれる。
私も、老い込むには少し早いとは思うし、若さを装って威勢よく見せたいのだが、体力がついて来ないことにはどうにも仕様がない。
元気に任せて体を使いすぎた反動でもあろうか。
しかし、反面子供が多いことは、自分の体が思うに任せないこの頃にとって全く幸福だと思う。
口では反抗し、批判しながらも血のつながりは恐ろしいもので、大体において5人の子供は私の掌握についてくる。
私はその点では全く恵まれた毎日を送っている。
口で言わなくとも行為で親父を助けてくれる。また、大黒柱の私が倒れてはかなわないと思ってか、口ではウラハラなことを言って、冷やかしながらもその行為で私をいたわってくれる。
アウンの呼吸と言うか、まったく息があって頼もしい次第である。子供のない人にはこの醍醐味が判らないであろうと考えると、自分の幸福に感謝せざるを得ない。
私が、意気地なくも手放しで号泣したのはそんな諸々の感情がほとばしったからであろう。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】