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年頭の決意
コラム『あまのじゃく』1954/1/1 発行
文化新聞 No. 1122
新聞をもっと大きく立派にしたい。
主幹 吉 田 金 八
秩父と所沢の支社が手を上げてしまった。地方新聞の経営は全く容易でないので、大概では続かないものと見える。
もっとも、普通、新聞屋になるのは金もなく、万策尽きた挙げ句になり下がったのが常なので、新聞社に入ったその日から米を買う紙を咥えてこなければならず、勢いどこへ行ってもお世辞を言って金を貰うか、脅かして金を貰うかしなければ、家族が路頭に迷うことになる。
新聞を売って規定の料金をもらう事くらいでは、当初からそう読者もつかないことだし、高々知れたものである。だから地方紙の行き方は太鼓持ち式か強面式のいずれかにならざるを得ない。
地方紙の経営方式を見れば、この二つの方式のいずれかに属しており、それに所属する支社長、支局長、記者と称するものが広告を取るのが専業で、記事の方はどうでも良いような風で、中央紙の記者が記事に追い回されているのに比較すると全然反対である。
本紙は一地方のローカル紙であるが、その点自慢の出来る行き方をしているつもりである。
ろくな記事も来ないが、秩父と所沢からの原稿がないとなると勢い飯能本社の取材で全紙面をふさがねばならないわけで、私の他にも若干の記者らしきものがいるとはいえ、自分の社のことを言っては恥ずかしいが、物の数にもならぬものばかりで、(もっとも月給を払っていないのだから、文句は言えない)毎日毎日一人で寄稿・投書を除いた全紙面を埋めている始末である。
幸い所沢は、長い間本社が犠牲を払って開拓した土地だから、支社が参ったとなったら「新聞はどうした、どうした」とご親切な問い合わせが来る始末である。
幸い、本社で見習いをしていた鈴木記者が後を引き受けてやることになり、毎日電車で通い始めたから、そのうち何とかものになるに違いないが、今のところは土地にも人にもなじみが薄いから思わしい記事も書けない。
ただ、将来に期待のできるのは同記者が生活に心配のない環境にある関係から、即座に餌を拾う必要もないことで、大器晩成の式で飽きないので、続けてくれれば必ずや所沢市民に愛好される『よき支社長』になれるということである。
新聞の仕事も決して悪い仕事ではない。
その日の戦果は翌日の紙面に現れるのみか、これに対する社会の反響も甚大で、良い記事に対しては大きな支持が直ちに湧いて行き、間違った報道、論説には読者は正直に横を向いてしまう。
こんな男らしい勇気と努力のいる仕事はないと思う。私は4年近くただ新聞を作るという、ただそれだけに没頭してきた。金を得ようという気もないし、新聞を拡張しようという面もほとんど顧みなかった。
ただ良い新聞、強い新聞、愛される新聞を作ることのみに専心したと言って恥じない。
更にまた安くなければならないことも文化新聞には不可欠の要件である。
それは他の地方紙のように、役場や村会議員、名誉職だけにお付き合いと称して押し売りするのではなく、大衆が1人残らず進んで読んでもらうためには、絶対に安くなければならないのである。
現在の本紙の定価は地方紙中日本一安いものであることは確かである。すでに紙面から割り出せば東京紙と同格近いものである。本年4月あたりよりは、さらに紙面を拡大して、東京紙と同判の4ページ立てにして、定価を100円で抑えることにしたいと念願して、その準備を進めている。これは実に乱暴な採算である。そろばんを取っては絶対にできないことである。
しかし、新聞は映画やラジオと同じように購読者が増すことによって広告収入が増加するし、その割には取材、組版等の費用が増えるわけではないから、紙面を倍にしても定価は2割強しかあげないという採算外の採算が成り立たなくもない。
そのためには印刷工場の能率も最大限に発揮しなければならない。金がないから中々思うに任せないが、努めて機械と設備を合理化して、3割の人員増で10割余計な仕事をする方途を考えなければならない。
私は他人には実働8時間の労基法の示す範囲以上のに仕事を強いないが、自分自身は労働者の5倍の頭と体を使っている。仕事が面白くて面白くてしょうがないので、1日が24時間働ければ良いと思うが、それは無理である。
読者は最近の本紙がほとんど私一人で取材され、執筆されており、1人の編集女子と1人の組版工、数名の女子文選工と女房の印刷作業で出来上がっている事を聞いたら、おそらく日刊紙として、驚異の眼を見張られることであろう。
幸い秩父に蒔いた本紙の努力と種は飛んでもないとこに実って、『ぜひ文化新聞の頑張りズムで仕込んでもらいたい』と岩槻飯能地区署長を介して秩父にいる同署長の同期生の推薦で22歳になる新聞志望の青年が入社して、暮から工場助手として追い回しに働き出している。
資本主義の社会でも、共産国家でも頭のない、働きのない人間が良い生活を望むのは無理だ。
パチンコをして「我にパンを与えよ」と叫んで見ても始まらない。
パンを要求する前に、力いっぱい能力を発揮することである。私は今年幾つだか歳は忘れたが、明治41年の生まれで人間の一番働き盛りである。
いくら働いても疲れを知らぬ丈夫な体を与えられている。
今年は昨年にも増してウンと働きたい。
新聞をもっと大きく立派にしたい。
私が望むのは只それだけである。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】