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飯能電話事件(2)

コラム『あまのじゃく』1951/6/24 発行 
文化新聞  No. 124


寝室の政治力

    主幹 吉 田 金 八

 この事件を見て第一に不愉快なのは、電通省が旧態依然として陳情と闇取引なしでは夜も明けない悪の温床であることである。
 彼らは口に資材云々して言い逃れようとするが、現在のわが国で何が資材難なのか。扇風機でも電気冷蔵庫でもオートバイでもラジオでも生産過多で店頭では買い手の来るのを、アクビをして待っている状態で、商人は貸売り、月賦販売までして商品の売り捌きに苦心している有様なのに、独り電通省関係の資材のみが生産不足の訳は無い。
 同じ独立採算制の専売公社が、タバコを強制割当までして「売らずんば」の時代に、電通省のみが分配、配給などと恩着せがましき態度で電話の架設を渋っているのは、彼らが統制時代の官僚悪の美酒の味が忘れられないからであろう。
 電話機などは文明開化の初期の産物で、この進歩する電波時代、原子時代の現在は、子供のおもちゃみたいなもので、電通省みたいな馬鹿者に扱わせず、民間にさせたら機械装置は3千円もかければ立派にできること請け合いである。
 電話ボスと川流子に冷やかされる某代議士の如きも、150本位の電話を引くことに政治力を発揮して得々としていないで、悪の温床を退治するなり、民営もしくは競争会社を作って、今日申し込めば明日は電話が引ける制度の改革に政治力を発揮すべきである。
 飯能が経済的に電話の必要度が高いにかかわらず割り当てが少ないならば、堂々と官庁の正面から、必要な調査票なり統計を持っていって、強引に架設を要求すべきで、それならば、全県下100本の割り当てを百本全部飯能に持っていっても、だれも苦情は言えまい。
 彼女が寝室で着物をねだるような方法は、いたずらに悪官僚をのさばらせるのみで、民主主義の退歩である。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
【このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします。】


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