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文化新聞所沢へ行く
コラム『あまのじゃく』1951/7/22 発行
文化新聞 Bo. 132
文化新聞所沢支社開設にあたって
主幹 吉 田 金 八
「25年前17歳で『清き友』という雑誌を発行し出版、新聞に夢を抱いた吉田君が今日、文化新聞を主幹する。誠に雀百まで踊り忘れずの例で、我が意を得たりの感が深い」
これは今度本紙の所沢市進出に当たって所沢支社長を託する粕谷市太郎氏の言である。
加藤八郎先生(本紙学芸部)が本紙を送ったのが縁となり、23年目に邂逅し、昔の青年雑誌の同人が再び出版・印刷の仕事を分担協力するに至った事は嬉しいことである。
粕谷氏は詩人であり、ホトトギス研究の俳人であり、中里介山のファンである。俳誌『若草』を主宰し、俳句の新境地を開拓するためにたゆまざる努力を続けておられる。
文化新聞に欠けている面も同氏の参加によって大いに補われるに違いない。
粕谷氏は新聞屋らしからぬ支社長であり、本社の趣旨も社業の分担を記者経験なき者に限っており、地方紙の新しいあり方として所沢地方に文化新聞が愛され、発展する事を願って止まない。
所沢は小川社長も筆者もゆかりの地で、二人とも当時の所沢実務学校の出身(筆者は二年中退)である。
寒中足袋を履かず、河野長敏校長より飯能の豪傑の称号を頂戴した吉田多助(筆者の幼名)とあれば、思い当たる御仁も多いことであろう。
高松教頭、安部立郎、林龍光先生など、寺子屋式学校だが思い出の教師もあり、雰囲気に懐かしいものが多い。
人間の一生を支配する自由なそして奔放な性格も、創学期の所沢実務学校の校風に影響され、培われたと言っても過言ではない。
(*編者注 内輪話で申し訳ありません)
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。