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社会主義の理想
コラム『あまのじゃく』1954/12/4 発行
文化新聞 No. 1361
人材育成の端緒が見えた⁈
主幹 吉 田 金 八
新参記者訪問記を書き始めたA記者は、名の通りまだ4、5日しか経たぬホヤホヤの新参である。
本社の人事関係は実に飄々としたもので、誠に風の如く来たり、風の如く去ると言った具合で、身元調査もしなければ難しい雇用契約も入社試験もないから、見方によれば頼りないと感じるかもしれない程である。
A君もその例に従って飄々と入社した。
彼が編集の手伝いでもさせてくれと新聞社を訪ねてきた時、戸外での立ち話で『この青年はどうやら使えるかもしれない』と直感した。
それに、本社も外野第一線をもっと充実しなければならない時期に来ていることを、主管者として反省している際でもあったし、『デスクは F 君が一人で沢山だからアキが無いが、見習い記者だったら空いてると言ったら『外野でもやってよい』ということで採用ときまった。
『月給は只から始まって、僕と同じ位にやれば2万円まで払う』と甚だ自分に慢心したような言い草だが、記者とは読んで字のごとく、鉛筆を使って原稿用紙を黒くする役目で、記者は書かなければ一銭の価値もないことを宣言して、A君もそれでよろしいという事になった。
そんな風で、履歴書も見なければ名前も聞かぬ、学校は T 高校だということだけでアッサリしたものである。
翌日から出社して、市内2、3の廻り付けを連れて回ったが、『文化さんも良い記者が入りましたね。段々ああした若い記者に主幹が批判される様にならなければいけない』と、町田市長は普段いじめられている鬱憤を、こんな風に新人記者を褒める事で、仇を取っている。
果たしてA君が、記者の言う様にモノになるかどうか、それほどに期待もしていないが、松下市議に言わせれば『吉田主幹一人の吉金新聞』で、老人主眼が目立つ編集手法で行く事はマンネリズムに落ち込み、それは現実の紙面が示す通りだと十分に反省している際でもあり、こうした若い人達の手で、本紙も段々と紙面が刷新される様な方向に舵を取っていく心算である。
現在、編集、印刷の関係では3,4年間の努力が報いられて、どうやら満足すべき陣容は、人的に物的に整った感がある。
堀越職長が入院中だが、これに代わってMという秩父の親分から、『ぜひ文化でのガンバリ主義で鍛えてやってくれ』と頼まれている青年が、30年もの経験者の後を守って新聞をに穴を開けずにやってくれる。
このM青年も吉田式放任主義で一年以上も思いに任せて放っておいたのが、職長の留守に実力を発揮する機会を得た訳である。編集、校正はこれも若い。F君が熱心に、忠実にやっているから心配はない。F君は熱心すぎて超労働で身体でも壊さないかと、それだけが心配である。
いずれも新聞が好きで、報酬を望まず記者のめ眼から見ても、お世辞でなく頭脳優秀、特に新聞人としてうってつけの人材である。
それだけにちょっと我が強いようで扱いにくいところもある。
しかし、記者(私)が自分自身我が強くて、独りよがりであることを思い合わせれば、眼の寄るところに球が寄ったとも言えよう。
問題は、この蛾の強い連中のチームワークの万全が期せられるかどうかである。
その点がうまく行かなかったとすれば、役に立つ連中同士だけにかえって結果が悪いことになる。
私はA君を頼む時に、月給はタダから2万円までだと言い、これらの青年たちが報酬を望まないのを良いしおにして、経営者としての悪こすい考えを行なおうと読者が思うなら大間違いである。
私は理論はないが、体験と良心に基づいた社会主義者を持って任じているくらいだから、自分の新聞社を社会主義の理想郷に盛り上げていきたいと考えている。
そこには、嫌々働く者もない、搾取もなければ不労所得もない、新聞は社会民主主義の大道を堂々と前進し、従業員は社会に奉仕しているという大きな誇りを持って、快適な文化生活を営むに足りる収入が保証される。
こんな新聞社を実現したいと考えている。
現在はその過程である。
どんな筆の立つ者がいても、立派な編集者、印刷技術者がいても、金を払って読む読者と、紙と印刷設備がなければその成果を紙面に表現する事は出来ない。まず、それらの態勢を整えることが先決である。
過去4年の本紙は、この第一目標の充実に他のすべてを犠牲にしたと言ってよい。
印刷の工員には世間並みの給料を払ったが、取材関係は一銭の金もかけられなかった。
これに乏しい収入を割けば文化新聞はとっくに自滅していたに相違ない。卵を取るために鶏を殺すというイソップ流の愚は現在の石炭界にハッキリ表れている。
資本家がむしり取って自己の安泰、 安全を図ることも、労働者がむしり取ることも、結局は事業の壊滅を招くことは変わらない。
ただ労働者のは安逸、贅沢の為のむしり取りではないだけに、防ぎようがないのだから、私は必要な人間でも、自分や家族の働きで補って、使わないで済ますという方法をとったまでである。
立派な才能や技術を持った人たちが、文化新聞に働くことを希望するようになりつつあり、新聞社も逐次これらの人達を受け入れられる様に大きく立派になっていく様な気がするのも、記者の一人広がりではなさそうだ。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】