地味に合わぬ種子
コラム『あまのじゃく』1953/3/26 発行
文化新聞 No. 663
細田栄蔵氏の懐の深さ
主幹 吉 田 金 八
細田氏が出馬するとしないのでは入間地方の選挙戦の様相が変わることになるので、大きな興味があった。
現在でこそ、事業的に失意の時代にあることとは言え、三十何歳の時から飯能町会議員を振り出しに、政治家と事業家を二股かけて、もって生まれた如才なさから自分には取り立てるほどの金もなかったが、弁才を振って代議士までにのし上がった細田栄蔵氏は永年月の事業界、地方政界へのつながりは相当深く、所沢毛織の全盛時代が同氏の全盛時代でもあったが、百五十万円のニューカーを乗り回して氏の引き立てを被った人間の数は相当のものであったろう。
頼まれれば嫌と言えない性質から、どんな団体でも事業会社でも、深慮せず『長』を引受けて、ズルズルと泥沼に引き摺り込まれる事も再三あった。
記者は某紙記者に『平良と比べての短所、長所』を質問されたことがあるが、細栄が長所とするところは平良の短所であり、平良の長所は細栄の短所だと評したことがあった。もともと金持ちに都合の良い社会組織を目標とする自由党に細栄氏が籍を置くこと自体が、細田氏の大成を遂げなかった根本原因で、同氏は元来社会党右派あたりがふさわしいのではないかという人さえある。
細栄氏は自分では金持ちを利用し、とんとん拍子に代議士にのし上がったことを「しすましたり」と考えたかもしれないが、広く深い目から見れば金持ち党のサンドイッチマンで、自由党の土運びの陣笠であったことを彼自身がこの頃に至って思い知ったのではないか。
すでに不出馬を決意した20日頃「先生どうする。どうする」と押しかけた家の子郎党を前にして「牛久保が遊びに来い々々と言うが、俺を連中は仲間だと思っているらしい」と取りように依れば自由党の衣は俺には似つかわしくないのだともとれる片言を漏らしたこともあった。
数日前の本紙に、「細栄がぐずぐずしているのは引退料を平良からせしめたいのではないか」と言うような投書が載ったことがあったが、貧すれども細栄氏、そんなケチな根性は指先ほどもない事は、氏を知る誰もが請け合うところであろう。
それに未だなるほど平良に比べれば貧乏かもしれないが、まだ十万や二十万の金が目にチラつくほどの貧乏にはなり下がっていない。
記者は細栄氏の今度の不出馬、見ように依れば自由党代議士の引退料に5百万や一千万は政界においては贈られるのが通例であり、贈られるものだとおもっていたが、そのことを彼の甥の細田雅吉氏に話したら(彼は前回選挙以後細田氏の扶持を離れて、現在松下町議のところで帳場をやっている)
「そんな器用なことができれば今頃貧乏していない」と細栄氏の高潔な性質に打ち込んでいる。記者をして言わしむれば、細栄氏のこの貧乏するとこが自由党社会では欠点であり、彼をして涙を飲んで出馬を断念するのに至った今度の選挙環境の変化ではないかと思われる。
平良氏のところに行っては留守々々で追い払われる新聞記者も、細栄氏のところでは我が家の如く振る舞って、家の子達とおからの煮たのや塩鮭でお茶漬けをパクつけるほどに、彼は庶民的である。
懐中に金はなくとも「先生どうぞ」と奉加帳を奉られれば、筆頭に金〇千円と書かされることを「よう嫌だ」と言えないところが細栄氏の貧乏する理由であり、代議士生活中、持ち込まれたいかがわしい手形の裏書きや「チョツト小遣いを」で失った金は相当なものであろう。
いわば細栄氏は社会党的種子を自由党畑に撒いたようなもので、育った樹枝もなんとなく畑にそぐわない観があり、もちろん地味が合わないから持つべき花が持てなかったと言うことになる。
記者も、個人的には親父の時代に貧乏機屋をしていた関係で、破産整理のときに細田氏にお世話になって、私と自転車で債権者の所を頭を下げて回ってもらったこともあったが、現在新聞で問題に依ればかなり聞き憎い「何のこわっぱが」と〇〇(*)腹を立たれ、そんな事も書〇〇〇(*)かつて怒った顔をされた事もないが、もちろん細栄氏から見れば取るに足らぬ小新聞の故であろうが「細栄氏と言う奴はどえらい男だ」としみじみ感じている。
(※ *印 元原稿の判読不明)
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】