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情けない市町村議員

コラム『あまのじゃく』1955/5/9 発行
文化新聞  1789


選挙民の意識の貧困さにも遠因が‥‥

    主幹 吉 田 金 八 

 毛呂山町の町会議員が丸木派の運動を依頼されて、千円から二千円の金を貰ったという事件が明るみに出た。
 町会議員が千円や二千円の金で転ぶ様では、一般大衆がキャラメル1個、新生一つで投票を売るのも無理はない事になる。
 よく政治の貧困という言葉が使われるが、政治の貧困の前に民衆の経済の貧困こそ問題にされるべきである。ある選挙事務所で革新市議と呼ばれる人が、キャラメル戦術について得々と話しているのを聞いて、腹の中で軽蔑の念に駆られたが、いつもポケットにキャラメルを入れておいて、訪れる家ごとにキャラメルを振りまいておけば、市議選の時には200票や300票を集める事が出来るらしい。実に哀れな市民であり、市会議員であることよ。
 キャラメルで当選する様な市町村会議員であってみれば千円か二千円、せいぜい1万円も持っていけば、どんな派にでも転んでしまう事は想像に難くない。
 そこへ行くと文化新聞は、吉田金八は金では絶対に転ばない。
 私は幾度の選挙にも金力に屈しないと公言して憚らず、読者の大部分にも、その点に関しては大変信用を得ていると自慢出来る事は、全く偉大なことではあるまいか。
 それは新聞屋であるから、広告料とか援助資金とかの名目で金を受け取ることは往々ある。
 しかし、それが説を曲げ、筆を曲げることが条件である場合は絶対に受けない。 このことは家族の者にまでよく徹底して、留守の時など『これはぜひ書かないでくれ』などと金品を持って来る者などがあっても全部断って、その旨が後で報告されるだけである。
 何時かは、ある官吏の事件で、その官吏が色々と人を使って事件の筆止めに運動をして来、果ては知人を連れてやってきて、金包みを記者のポケットに押し込んだ事があったが、『人を見損なうな』と外につまみ出したことがあった。
 この式で一生通れたら毎日の生活は贅沢は出来ず、用紙を買う時には苦心もいるが、心は王侯だと家族には晩酌の時だけ威張っている。
 『偉そうなことを言っても、金の前には頭も上がらず、わずかの金で節を売る奴らばかりなのに、父ちゃんはどうだ。 惜しい人間を落選せしめたものだよ』と。
 警察署長が『記者諸君とお近づきがしてないから、一席安いとこでご招待したい』と申し出た。
 『署長さんも金がないだろうし、新聞記者も金がないから無駄だろう』と憎まれ口を聞いたが『いくら警察でも後援団体があるから、その位の金は何とかなる』と署長が言う。
 オートバイの車検やら何やらで忙しい時で、行きたくもないが、行かないと警察の違反検挙が手ぬるいなどと、嫌味な記事を書いた直後でもあるので、尻の穴の小さい奴と思われるのも嫌だから出席を約束した。
 自分が立候補して落選しているだけに、今度の選挙のことは書きにくく『落ちたから他のことを八つ当たりに暴く』などと投書でもあると全くウンザリして闘志が削がれてしまう事は、いかに鉄の意志を持って任じていても、記者も人間である。
 『お前の女房も個別訪問をしていたでは無いか』などと言う投書があったが、一点でも疚しさがあって他人の事が書けますかと言いたい。
 『警察も意地になるから、無免許ではオートバイも乗れない』と子供たちまで承知している。いつか某支局員が村議のせがれに酔って殴られたことで、『親父のことに話をつけに行こうと思う』と言うから、『下手をすると恐喝に引っかかるから、受け持ちに同行してもらった方が安全だ』と指示したこ事があったが、新聞記者も身を持するに厳でなければならない。
 話は余談になったが、キャラメル1個、千円で 選挙民や指導者が買収される様では、良い政治はいつになっても行えず、依然大衆の貧困は解決されない。 
 選挙民があまりにも貧困だから何時の選挙にもわずかな金に騙される、貧困生活と貧困政治の悪循環は断ち切れない。
 こう考えてくると、新聞の使命目的の前途があまりにも長く険しいので、暗然となってしまうが、また考え様によれば前途が長ければ長いほど新聞の存在価値が続くと言う事になるので、新聞親子で二代も三代もの計画設計が意義あることになる訳である。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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