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新聞の権威

コラム『あまのじゃく』1957/9/4 発行
文化新聞  No. 2655


特売店の呼び込み同然は ”みじめ” 

    主幹 吉 田 金 八 

 市の水道部から電話があって、『明日15号台風が来たら水道が断水するかもしれぬから、市民に飲料水を汲み置いて貰いたいとの記事を出して貰いたい』と言ってきた。
 明日の事をすぐ市民に速報する場合、金と人とを動員して各隣組に回覧板を出すとか、宣伝車を繰り出すか、それ以外には新聞で報道する以外には目下のところないであろう。
 東京電力は管内の停電予告などを常に本紙に連絡して、周知方を計っているが、全くこうした面を考えてみても、新聞は公器として社会に重要であるとことが判る。
 公益上の場合は当然としても、仮に人を募集するにしても、餅菓子を特売するからという場合にしても、本紙に広告をすれば小さいスペースなら100円、200円の少額で、それはメガホンを毎戸タダで配っているほどには徹底しなかもしれぬが、一応は全市に行き渡ることだけは確かである。しかも時間的にどうしても必要な場合には、午後5時頃までに申し込んだ広告でも翌朝の新聞に載るというのだから、こんな便利でしかも割安なことはない。よくわずかの広告料を負けろなどと心臓の強い人もあるが、そんなのは『新聞に広告する代わりに、街中怒鳴って歩いたら良いでしょう。広告代くらいは腹が空きますよ』と冗談を言うことがあるが、全くその通りではないか。
 私はふとこんなことを考えることがある。
 それは全国の新聞が一斉に1ヶ月も休刊したら、社会はどんな事になるであろうかという事である。
 政府は保安上、ラジオ、テレビなどの息のかかった機関を動員して、内外情勢や広報事項の放送に努めるであろうから、大震災の時ほどの混乱はないかもしれないが、これとても官製一本のニュースでは国民が疑心暗鬼になり、『放送ではこういったが真実はどうなのか』と戦争中の大本営発表を信じなくなったと同様な結果が生じない限りもなく、こうしたことになって初めて平常はうるさいものに扱われていた。ジャーナリズムの功徳が懐かしがられるのではないか。
 本紙の如きはものの数ではないとしても、仮に東京三紙が割当制で一町村に100部しか売らないと限定したらどうか。おそらく300円、500円のプレミアムがつくことは必定で、この様に考えられるほど有力な新聞紙は社会貢献し、なくてはならぬ存在なのだから、販売にあたってはもっと権威のある態度を持つべきではないだろうが。
 最近は景品付きの勧誘は後を絶ったが、それでも強引な勧誘は盛んに行われており、この間も某紙の勧誘員が、しかもぞろぞろ3人やってきて、『グレていたのが心を入れ替えて真面目にやることになったから』と、愚連隊上がりを看板にするような進め方で、断れば捨て台詞で引き上げて行くのに出会ったが、こんな事だからせっかく権威のある新聞でも、読者が購読してやるような顔をする事になる。ロンドンタイムズがいたずらに発行部数の多いことを誇らず、しかも世界中に信頼を得ている地味さこそ、販売競争で夜も日も明けぬ日本の有力新聞も、すでに信用の点で自他ともに許す域にあるのだから、あまり商業主義に堕さない方が良いと思う。
 本紙も今まで飯能市内の販売は『申込者だけに売る』という超然さであったが、それでもあまり愛想がない、『寄ってらっしゃい。休んでらっしゃい』の呼び込み言葉も茶店のエチケットであるとすれば、押し売りでない程度に呼び込み、アピールは必要であろうかと考えられるので、今度新設の格販売支局は市民に嫌われぬ程度に、これを行うことにした。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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