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激しくなる新聞の競争

コラム『あまのじゃく』1952/12/6 発行 
文化新聞  No. 542


自由な競争を歓迎

    主幹 吉 田 金 八

 新聞の共販制が崩れて各紙とも専売制になりつつある事は自由競争の経済原則の必然である。
 記者の目に触れる各紙の通信記者も販売所も、10月以前の和やかさは失われて、記事面では他紙を抜きんじよう、販売面でも新分野を開拓しようと言う意気込みがみなぎってきたことがうかがわれる。
 共販制はいわば新聞統制の温室であって、紙が自由に買えるようになった現在、各紙は各々の持つ特色の読者層の狙いに応じて、自由な紙幅と自信のある定価で大衆の求めに応ずるべきで、今後は新聞社同士の激烈な競争時代が現出する事は避けられない。
 そのために東京紙同士の優勝劣敗も起これば、東京紙の地方版に押されて、地方紙の衰退と言うことも考えられる。
 特に日刊地方紙が東京紙に押されるということは、色々な条件で不可避のごとく考えられ、これは特に大都市周辺において顕著であって、埼玉県のごとく首都に接近している場合、日刊地方紙の経営が困難さを加えていく事は想像に難くない。
 この事は戦争以前の地方新聞の歴史的事実が証明するところである。
 しかし、地方紙には地方紙の持つ独自の意義・特色があるので、例えばそうした困難さは加わっても、これに打ちのめされて縮こまってしまう必要は豪もないことで、地方紙は地方紙としての使命を深く認識して経営の合理化、中央新聞の真似られぬ得意の境地を拓いていくならば、これまたあまり適切な表現ではないが、アメリカの真ん中に邦字新聞があり、日本料理屋が何十軒も商売している如く充分な生きる道もあり、積極的発展の道があると私は信じている。
 競争が激しくなると手段を選ばないと言う現象も出てくるであろうが、やはり競争はフェアプレーで行くべきであって、他紙が配達されているのを引き抜いていくと言う如き下劣な妨害行為(これは現在すでに始められており、今後こうした悪い手段が横行の危険が充分ある)は、いやしくも新聞事業の公益性を考えれば、末端の行為としても許しがたい。さらに手拭いや風呂敷を持っての勧誘拡張も(これが案外有効らしいが)あまり褒めた話ではなく、付録や福引競争も当然盛んになるであろうが、好ましい事では無い。
 競争はやはり新聞の表芸である紙面の内容と経営の合理性による販売価格で行くべきではないかと考える。価格の競争は一寸見にフェアプレーでないごとく考える方もあるかも知れないが、自由経済の本義は良い品を他より安く、というところにあるので、独り新聞のみがその埒外である事は許されない。記事は遅くとも(これは要するに取材に金がかかっていないことを意味する)安ければ良いと言う読者も田舎には多くある。
 万人の好みは異なるのだから、今後の新聞界は統制時代に見られない、各紙が欲しいママの特色を発揮して、百花繚乱の賑わいを呈する事であろう。
 本紙の如きは、かかる競争の圏外にある一小紙ではあるが、気持ちだけは大新聞に負けずにやると言う決心で進みたいと思っている。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】


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