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文化の日

『あまのじゃく』1950/11/5 発行 
文化新聞  No. 59


「文化」とは何ぞや⁉


    主幹 吉 田 金 八

  「文化の日」に関して、小学6年生に「文化」の文字のつくものを挙げよ、と問うたらば真っ先に答えられたのが文化新聞であったと言う。誠に光栄であり、わが意を得たりの感が深い。
 6年の児童に「文化とはなんぞや」と問わなかった教師も賢明であり、文化と文化新聞をつないだ児童の鋭敏な直感に敬意を表する次第である。
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 「文化」即「文化新聞」なりと答えた6年の児童は、電話が300本増える事は画期的な文化の向上だと言う増島飯能町長よりも感覚において優れている。なぜなら、まず増島町長は300本の電話を引くために32万円の運動費(この中には電通省の役人に飲ませたり、出身代議士と当路の役人を懐柔させるための費用が多分に含まれている)を賄うことが、なんら民主主義の理想に相反していないと言う文化的センスの欠乏症である。
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 不公正・不公平の町民税に対する町民の批判を恐れて税額の公表を拒否し、「知らしむべからず、依らしむべし」と言う野蛮独裁の非文化的・非民主的町政を行なおうとしつつあり、「他人がいくら税金を納めているかお前らは知る必要はない」と言う考え方は「徴った税金をどう使おうと余計なことを言うな」と言うことに発展する、恐るべきナチスの思想であり、文化国家・民主社会の破壊者である。
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 「文化」とは探求された思想・芸術・科学の成果を直接人間の生活を幸福、快適にするために役立たせることであると思う。電話を普及して仕事を能率・便利化することももちろん文化の一端の進歩には相違ないが、このために不当な運動費を使って民主主義の政治行政の機構を毒する事は、文化の後退である。
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 文化新聞は外見はあまり文化的でないかも知れないが、精神においては多分に文化的なりとの自負を持っている。
 官吏の切り捨て御免を糾弾し、国民をパンパン的・三助的奴隷根性から解放することによって、真の明朗な社会を建設したい念願に燃えている。
(*編者注 戦後間もないこのころ、地方では電話の増設に苦労しており、当飯能町では、機能しない飯能の電話を”半能デンワ”と揶揄して早期の増設を期待していた。)


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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