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懐かしいかき氷の味

コラム『あまのじゃく』1963/6/25 発行
文化新聞  No. 4498


集中的な「観光施設」の計画を… 

    主幹 吉 田 金 八

 いよいよ本格的な夏が訪れたような日曜日だった。
 二日ほど12時頃までの夜業が続いて、家族にもゆっくり休養を与えてやりたい日曜だった。
 そこへ西武町の方から火事見舞いに対するお礼状の印刷を頼まれた。
 他のことと違って災難にあった家の仕事であれば万難を排してもやらなければと、先方がたまげるほどの値段で引き受けて、しかもできたらお届けすると約束までしてしまった。こんなとこが文化新聞式といえば言えるところである。
 印刷は手刷りで、学校へ行っている子供に引受けさせたが、出来上がったものは西武町まで届けねばならない。
 家にいても暑くて身体を持て余す始末だったので、仕事を届けながら、ドライブで涼味を楽しんで来ようと女房と娘を誘って『どこかで氷水』でも飲んで来ようと出かけた。
 この節『氷』と書いた吊るし看板は仲々見かけられず、どこでも目につくのはアイスクリームのボックスばかりである。
 アイスクリームはなるほど食べる時は美味しいが、あと口にただの水が欲しくなる食べ物で、私は昔式かもしれないが、かき氷が好きだ。
 いつか竹ヶ淵の上でかき氷を飲んだ記憶があるので、西武町からちょっとのして、竹ヶ淵の上で氷水を飲んだら涼しいだろうと思った。
 仏子から豊岡に出てグルリ廻った結果になったが、笹井の堰付近、竹ヶ淵と氷水屋を探したが、新道が出来て客が寄らなくなったのか竹ヶ淵の茶店は表を閉じてしまい、結局氷水にも出会わず、また飯能に戻ってしまった。
 皮肉なことに飯能に入って踏切を渡った途端、『氷、工藤製氷』の看板が目についた。しかし、そこは自動車の往来が多いし、私の家に近すぎて気分が出ないので市街を通り越して名栗河原に行った。
 前に一度氷水を飲んだことのある水天宮東の店を「氷水あれようかし」と覗いたら、嬉しいことに、ここは裏の方に水遊びの客を予定して、よしずばりも拡張して、今年はかき氷を本気でやって大いに儲けている様子である。
 私たちは腰掛けを川っぷちまで持ち出して、釣師で賑わう河原を眺めながら、氷いちごやスイにサイダーをかけたのを十分に味わった。
 女達も「腹の底から涼しくなったようだ」と、私の思いつきにお世辞ばかりでないらしく、共鳴を送ってくれた。豊岡まで行って思わしい氷屋が見つからなかった時、村山貯水池までのそうかと思ったが、「チョイと野田まで」とつっかけ下駄でついてきた女達には、貯水池は遠すぎるし、宮沢湖を考えたが、これは入り口のとこに茶店があるくらいで、湖畔にはおそらく何もないだろうし、やぶ蚊に食われるのが関の山だ。
 こう考えると、飯能も暑さを逃れる施設公園などでは誠にスキだらけという以外ない。それでも最後に名栗河原に気づいたから良かったと言えよう。
 名栗河原も対岸の護岸工事が出来て大変川の流れも広くなり、もう少し手を掛けてこっちの岸辺の汚れ物などを掃除すれば、『やはりこの辺では夏の涼しい場所』としては最適と言えるだろう。
 それにしても、この飯能の『唯一の水辺公園』をボート場だけで満足して、(あるいは満足している訳でもあるまいが)阿須の方に『釣り堀池』を開設しようという観光共同組合の方針は、少ない力を分散するものとして賢明ではない。
 もっと市役所下の旧水車あたりに、 有料のプール、ゴルフの練習場、釣り堀等の施設を集中してやってみてはどうか、というのは私の友人の構想であり、忠告でもある。
 せっかく文化新聞が開発を提唱したのだから、その調子に乗って力を入れるべきだと、その友人は大いに力を入れて、『今河原へ行って氷水を飲んできた』という私に、力コブを入れて話していた。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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