自動車いじりの道楽
コラム『あまのじゃく』1959/3/9 発行
文化新聞 No. 3192
終生未完成?のポンコツ修理
主幹 吉 田 金 八
知り合いの商店主のところへ犬を連れて行ったら、「うちでも犬を飼おうか、植木をやろうか考えている」とのこと。
「こんなに商売が繁盛をして儲かっていたら、何も手すさびはいらないだろう。私のとこなどは仕事が忙しくて暇のかかる道楽は何もない」と言ったら「文化さんなどは壊れ自動車を3台も5台も転がして置いて、かなり飯能ではその方の道楽は強い方ですよ。 道楽が無いなんて飛んでもない」と逆襲を食ってしまった。
なるほど、言われてみれば私などは自動車では道楽が強い方なのかもしれない。
思い返してみても、私が自動車に乗り始めたのは昭和10年頃からのものである。その頃、飯能には『小能の坊ちゃん』という自動車マニアがいて、広い邸宅の一部に商売になるほどの工作機械や自動車修理施設(当時、営業者にもこれだけの設備のあった所はない)があり、自分用の車としてオートバイが十数台、自動車もフォード、リンカーンの新車が各1台、消防自動車まで自家用のをこさえるほどの物好きであって、東京へ行ってもこんな自動車大尽は少なく評判だったほどであるが、この『小能の坊ちゃん』を除いて飯能地方に自家用車を持つ者などほとんどなく、自家用名で他人の荷を運ぶモグリ業者はあっても、本当に自家の荷を運ぶ、事業所など皆無の時代だった。
仏子の平仙には1トン半のトラックがあり、 所沢の張石に織物運搬用のライトバンがあった位で、県下でも大事業所に属する丸中工場すら自動車はなかったことで、当時の状況は押して知るべしであろう。
その当時、私は、同級生で自動車の運転手をしている男に誘われて、東京の自動車マーケットでどこぞの大使館の上がりだという29年式フォードの幌型を買った。
この値段が195円で200円の言い値を5円負かした訳である。新車が2000円くらいの時代だから、今の金にすれば10万円にも当たるが、今の私には10万円のポケットマネーはちょっとないが、その当時、貧乏の小セガレでも200円くらいの金はなんとかなったのだから、今の方が成り下がったとも言うべきか。
雨の降る日、試運転ナンバーでこの自動車を家に乗り付けた時、親父が驚いて唸りつけまい威勢だったが『たった200円なのか、俺は1000円もするかと思った」と、その値の安さで親父を納得させ、この車を近所の道を転がしながら免許証を取った。
世間の人は単車から小型四輪、大型車という順に免許を取るのだが、私はいきなり大型免許で、その後に単車や三輪車、側車付という具合に追加されて逆のコースである。
この車には3年ほど乗ったが、廃車後は甲州の方に移動製材の動力用として、エンジンだけで80円に売れたのだから損はなかった。
それから自動車マニアの道をたどった訳だが、私のは小能さんのように金に任せてというわけにはいかず、家の一部を修理工場にしてみたり、ブローカーをやったり、いろいろな起伏変転があった訳である。
現在新聞社という商売柄、どうしても足として必要で常時乗り回しているが、私の一番楽しい事、やりたい事は自由存分に自動車をいじってみたいと言うことである。
普通の人なら何十万、何百万の豪勢な車に乗ってみたいという欲望を抱くらしいのだが、私はついぞ嘗て立派な自動車に食指が動かない。
他人はこれを『欲しがっても及ばないからだろう』などという見方をするかもしれないが、私には虚勢でなくそんな気は毛頭ない。
だからこそクズ鉄で一台5千円か1万円の車にも愛着があって、『今に手をかけて乗ってみたい』という期待のもとに、クズ屋が目をつけるのを断り続けている。
しかし、もともと前記のように素人覚えの運転手であり、修繕屋なのでいまだに自動車を壊すことは名人だが、直す方には自信がない。
今でも寸暇を見つけて自動車をばらすことはあっても、纏め上げる暇と根気がなくて、そのまま若干のお金をかけたままで、クズ屋にお払いというようなことばかり多く、何とか自分で思うように自動車を改造を組み立てしたいと思う懸案を達成したことがないのが終生の残念である。
この学年休みをよりして長男が体を持て余しているので、「お前、ふた月ばかり機械屋に見習いに行ってみたら」と誘ったところが、新聞社の手伝いを好まないセガレが「行っても良い」と二つ返事でなので、懇意な鉄工所に毎朝8時前に出勤、見習工として電気溶接、酸素溶接などの助手をしているらしい。このセガレに酸素、旋盤の扱いなども一応習熟される事によって、私の体には暇がないけれども、このセガレを使って長い間の素志を貫徹出来ようかというのが私の狙いである。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】