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文化新聞 吉田金八

コラム『あまのじゃく』1955/4/13 発行 
文化新聞  No. 1772


粗野だが、情熱と実行型の男

    主幹 吉 田 金 八

 文化新聞の吉田金八が両派社会党と飯能地区労働組合協議会の推薦で県会議員に立候補した。
 吉田金八も偉くなったものである。
 なになに『まだ県会議員になった訳ではないから、ちっとも偉いわけでもない』って、飛んでも無い!
 もう県会議員になったも同様である。
 と言うのは、今度の県会議員選挙で、飯能市では1名しか定員がないところに持って来て、保守から3名の候補者が立っている。
 これに対して革新派は手堅く、両者が勝手な行動をして共倒れになることを避けて共同戦線を張り、候補者は一名に限って立てることにし、しかもその候補者の選考を両社の重要な基盤である、同地方における最大の組織とも言うべき地区労協(飯能地区労働組合協議会)に主導権を委せて、地区労協が選んだ候補者ならば、それが右社であろうと左社であろうと、さらにまた党外人であろうと文句を言わずに、手を取り合って推薦しようという事になった。
 地区労では傘下の全駐労ジョンソン支部飯能分会、 国鉄労組、全電通、全逓、新電元、東京電力、飯能製糸の各組合代表のほかに教職員組合(正しくは日本民主教育政治連盟)、農民層の各代表をオブザーバーとして、数回の選考会議を開いて、文化新聞の吉田金八を推薦することに決定した。
 もちろん吉田金八を決定する前に及川愛吉、佐野作治郎氏などの革新的感覚を持つ保守畑の人たちや、文化人としての小川文雄氏、左社の峯村幸三氏等も左右両社や地区労として話題に上り、その大部分の引き出し工作が進められた事実はあるが、いずれも白羽の矢を向けられた人たちにそれぞれの事情があって、これらはついにどれもこれも実現を見ずに終わった。
 そして最後に吉田金八というところに落ち着いた。 もっとも、吉田は両社が立候補を投げれば単独でも出馬するとしばしば紙上で声明しているので、革新派とすれば、どうせ革新支持の票を、自由党、民主党とはっきりした保守反動の候補に入れる訳にもいかず、多少はズレてはいるが、吉田に入れるより他にない。
 それならばいっそのこと推薦候補として強力に押し出して、当確を期した方が良いのではないか、というところから、吉田で地区労も我慢したのではないかと言われている。 
 ところが、最近は労働者も感覚が新鮮になり、教養も向上し、身辺服飾も割合に気にする様になっているところから、吉田のなりふりもあまり気にせず、野蛮人、自然人さを奔放に振る舞っている事がいささかお気に召さない、だから推薦する代わりには、我々の代表として恥ずかしからぬ品位を保って貰いたいという注文をつけた。さらに選挙戦もこの前の市長選挙の時のようなデタラメでなく、もっと真剣にやって貰いたいという条件をつけた。
 この注文に対しては吉田は唯々諾々と承知した。彼がアブラだらけの服を着ているのは、新聞社の社長とか主幹とか名前だけは一角だが、その実、工場の機械から自動車の修繕まで、時によれば大工の真似までやらなければ、こんな小さな都市で毎日タプロイ4ページの活版新聞の発行など、経営の面で行き詰ってしまうことは当然で、取材から工場の雑務まで毎日1人4役をやってのける彼には、なりふり構っていられないのも已むを得ないことで、彼とて決して良い服や良い靴が嫌いなわけではないらしい。
 だから地区労が街頭演説する時にはネクタイをつけて毎日髭を剃ってもらいたい位の条件は別に苦にはならない。
 選挙の方式とても、彼が一人のしっかりした後ろ盾もなく単身出馬した市長選挙の時などは、『お願いしません。投票したい人だけ投票して下さい』という奇手戦法を用いたが、今回のように一千有余の組織である地区労協、平岡、師岡を合わせれば六千票近い革新の支持票を持つ両社が推薦すると言うのならば、あえて危険な奇手を弄する必要は全然ない。公式的な成功法で行くことが当たり前であると言える。
 立候補をしたとなると、各新聞社が吉田の経歴を取りに来たが、学歴は所沢実務学校2年修了、政治歴、名誉職の経歴に至っては一切なしという、変わった回答に、今更ながら驚いていた。彼は一本調子で向かったきりだから、若い時から脇き目も振らず、自分の人生の目的に邁進した。
 青年時代には多助と言ったが、親父の死んだ時襲名して金八となった。
 明治41年に現西武町の仏子で呱々の声を上げ、物心がつかぬうちに飯能に移り、親父が吉金呉服店という、初めは商品を自転車の尻につけて歩く程度の衣料行商だったのが、だんだんと努力の甲斐あって成功し、3丁目の北裏売り場の長屋に5,6歳の頃まで居り、それから二丁目の丸屋酒造の前で小・中学校時代を、17歳の時、親父の本業の呉服屋の傍ら、同市大河原で機織り工場を興し、その主任者として学校は途中でやめ実業に入った。
 20歳の時選ばれて飯能町(当時)の青年団長になったが、あまり年が若すぎたため、思わしい成績はあげなかった。
 その前後に社会運動に興味を持ち、当時『希望社』という青年男女の修養運動が盛んだったが、その飯能地方のリーダーとして、同時に『清き友会』という団体を作り、大いに青年男女の間に男を売った。この『清き友』の会員が千人ほどもあり、毎月機関雑誌を発行していたが、親父からもらう小遣いではやりきれなくなって、それにリーダー格であった彼も甘いロマンチズムには飽き足らないものを感ずるようになり、ついにこれも自然と解散した。
 その後、香川豊彦氏の人道的社会主義に共鳴し、コールテン服で協同組合や博愛主義を解いていたが、親父の商売が段々と手詰まって、やれ、借金だ、手形だと追い回されるに及んで、そんな事ばかりやってはおれず、25歳位から35歳くらいまでの間、貧乏機屋経営に苦慮の年月を経た。その後、幾度か『こんな銀行の働きをしているような商売をやめたい』と思ったが、飯能信用組合に工場、機械を抵当に七千円を借り、一躍当時とすれば信用組合(今の農協)の借り頭にのし上がった。
 その借金の保証は同郷の関係で大河原の中里三四郎氏(故人)がしており、この借金を返さず商売を止めれば保証人に迷惑がかかるので、これが気の毒で止めるに止められず、現代の機屋、材木屋、商人と同様な自転車操業に明け暮れた。
 昭和11年に親父が日頃の苦労で脳溢血で死んでしまい、その保険金で一応借金の片がついて、長年の肩の重荷をおろすことができた。
 それ以来。 彼は自分の考えるまま、進みたい道を自由奔放に進んだ。
 以来、第一生命の外交員、陸軍軍属で大陸に従軍、日本金属回収株式会社支配人、古物交換市場等の職歴の後、昭和26年現在の文化新聞社を創立、ガリ版週刊から逐次日刊活版印刷、現在では社員従業員約20名、タブロイド4ページの新聞を自家工場で発行し、特色のあるローカル紙として地方の大きな威力となり、弱い人で広く社会に訴えたいが訴える手段のない人たちにとっては唯一の頼りであり、味方となり、権力者やボスには困った新聞ではあるかもしれないが、一般大衆には多大の支持を得ている。
 思えば20年前に、師岡栄一氏が飯能町議に最初の革新の議席を占めた当時から、すでに吉金はタイプで原紙を打ち、ガリ版刷りの新聞を出していた。そして孤軍奮闘の師岡を声援して、大いに革新の気風を飯能地方に進展させることに重要な役割を果たした。
 確か、昭和24年春の選挙で師岡が落選した時、彼(吉田)は古着屋で儲かっていたから大型トラックを買って提供し、少なからず援助をした。その後の知事選には師岡は民主戦線統一候補で戦って惨敗し、その後左派を除名された。しかし、師岡と吉田との個人的な交渉は変わらなかったが、吉田は自然と右社と近づき、昭和27年の国会戦に出た平岡忠次郎に対しては、吉田が平忠の兄貴である所沢の平岡徳次郎と織物業としての関係、年齢が同じだということなどから、 さらにまた平忠が社会党から出る以上、かなり本気になって応援をした。
 当時平忠などという名前は誰も知らず、平仙の親戚なのかしら、という程度の世間に、平忠を新聞を通じて大衆の啓蒙周知に努め、平忠には相当感謝される側面援護の役割を果たした。
 平忠は、彼が高麗の横手に疎開していた頃、軍の放出の羽二重を、古物市場をしていた吉田の斡旋で買い入れて、新聞切替えに備えた以来の交際で、平忠が代議士になっても平岡先生と呼ぶのは面映ゆいらしく、それにその後は新聞屋で代議士など何とも思わない商売になってしまったから、ツケツケ何でも言うので、3回も上位当選で偉くなってしまった平忠が、吉金を煙たく思っているかもしれない。
 昨年、市長選の時、吉田の人気が侮り難しの空気の時、それまで小馬鹿にしていたものか挨拶にも来なかった平忠が、陣中見舞いに訪れた時、『遅い遅い』と、物事に考えが単純で、森の石松のような気風の吉田は立ったままで浴びせかけたという逸話があり、吉田にすれば『平忠はいち早く、たとえ、党外の立候補でも応援演説の一つ位やってくれても良いではないか』という気があり、平忠の方では学問もない社会主義の理論も理念も持たぬ吉田を、新聞屋として扱って案外バカにしていたのかもしれない。
 吉田が正式の社会党員でなく、単なるシンパ的立場で押し通してきているが、土地っ子で誰も人柄を知っているということは、これは彼の46年の生涯を、弱い者いじめをしない、権力にはあくまで反抗するという次郎長か国定忠治のような性格に、庶民の支持は相当なものがあり、その人気が彼をあんなデタラメな市長選を打っても千八百票の支持があったことでも立証できる。彼のよいことといえば努力をする事、この点、新聞経営の面でも好きな事とはいえ、実に熱心に現在の文化新聞を、金の5万円や10万円持って行っても『フン』と鼻であしらうほどの、自立自営の域まで持って来たことは偉大であると言えよう。
 特にこの地方の革新派が少数でも効率的な身振りができ、漸次保守の牙城を崩していけるのも、文化新聞の功績は大といえよう。
 こうしたことを勤労者大衆は感じ取って、全然党員でもない、労働者でもない吉金を、候補者としての品位を保ってくれるならば支持しようではないかと、左右両社の思惑を顧慮するところなく推薦を決定し、実際の組織である地区労の決定に引きずられて、両社も推薦の体制を備えて、ここに完全な戦線の統一が出来た訳である。
 吉田の欠点は勿体ぶらずに何事も明け透けにしゃべること。
 人を人と思わずズケズケということ。要はエチケットが
無いということ。無駄な事、バカバカしい事には一切振り向かず、自分の思った事だけをやって、それに多分に独裁的でワンマンであること。
 これらの点は平良とよく似たところがある。
 ただ、彼を本当に県会議員に送り出したら仕事が出来ること間違いない。 抱え運転手付きの自動車などいらない。オートバイなら40分で浦和に行ける。役人などにおべっかを使うようなことはしないが、当然の権利は絶対に譲らない、向こうっ気の強いとこで押切って、飯能地方が県の施策から遅れている面をビシビシお手の物、新聞の力を活用してぶんどってくることに間違いない。
 彼も一応、社会主義の理念に立っているからには、分捕り主義は出来ないだろうが、今まで県に貸越しになった分と、今後の分と合わせて要求することに遠慮はしないであろうから、仮に吉金(彼への市民の愛称通り名)が県議になったら顕著な仕事を果たすのではないかと思う。
第一、保守陣営の戦線で、保守を片端から倒していく庶民の間から、彼のごとき男を県会に送り得たら愉快な事であろう。
 彼は前に述べたように、社会党支持でも相当幅広い行動力を持っているから、セクト主義で変なことになっている社会党の統一に、かなり有効な潤滑油的効果を上げるのではないかと思われてる。
 家庭は母ヨネ(73)、夫人シゲ(43)、本年日大法科に入った長男健(18)、武蔵高校2年の次男吉田鐵之助(16)の他に、中・小・幼稚園の三女がある。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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