見出し画像

事業家よ、何故泣くか!

コラム『あまのじゃく』1959/1/4 発行
文化新聞  No. 3128


金融資本の魔力から脱して

 今こそ奮起するの時

    主幹 吉 田 金 八

 いつの時代から借金に利子がつくようになったのか。
 昔、武士が借金をした時の証文に「何月何日までにこの金を払わなかった時には、拙宅の前で大わらいに笑ってください」と書き入れたとあるが、察するに、この頃の貸し借りには、利子の率が条件に入れられる様な事はなかったのであろう。
 シェイクスピアの「ベニスの商人」では借金を払わなかった時に、身体の肉を切って渡すという条件を入れて裁判になった時、この血も涙もない貸主が「この男を殺して肉を貰おう」という申し立てに対して、裁判官が「一滴の血を流すことなく、肉を切り取ったら良いであろう。万が一、血が流れてるようなことがあれば、お前は死罪だ』と胸のすくような判決を下した段があるが、このローマの時代にも、借金というものは商人の首枷であったらしい。
 本朝でも親の借金で孝女が苦界に身を沈める様な事は、芝居などで深刻に書かれている。
 この原稿は新年号用のものだが、記者が机に向かって筆を走らせている今、この時間《28日の夜7時頃》にも日本のおよそ1、2割の人は貸した金の取り立て、借りた金を払う工面に目を血走らせて頭を悩ませ、掛取りや交渉に骨を折っているであろう。
 こう他人事の様に言っても、割と借金主義でない我が新聞社にも、今朝は東京の紙屋、母型屋などから「集金に人を向けます」という電話が掛かっている始末で、これは別に手形も出していないし利子もつかない、当世の取引とすれば現金同様の掛け売りでも、借金は気がかりなもので、当社の会計主任である女房は、年末賞与と12月分の給料とが重なって、その上にこれらの支払いで、入ってくる金をどう配分して辻褄を合わせるかと苦労している。
 月々わずかなお金の出入りの田舎新聞社ですら、斯くの如きであってみれば、大きな事業をはなえ、しかもそれが悉く銀行からの借入金、手形の発行で賄っている商店工場とあれば、どのくらい大変な遣り繰りであるかは、多少はその道の苦労を経た記者とすれば十分判りきっている。
 昨年(この原稿を書いている時は本年)は飯能地方でも繊維業界に赤い風が吹いて、大きな原料商が数軒バタバタと倒産整理に見舞われた。 
 これらの業界は原子核の連鎖反応を見たいな取引と影響が繋がっているので、この大店数店の倒産で、暮れの飯能地方の業界は表面無事を装っているが、関連ある業者が続いてバタバタ行くのではないかと懸念された。
 それでもその後どの線で食い止めたか、一応、それだけで越年したものの、まだまだ化膿した部分は塗り薬でごまかしているので、いつこの膿が吹き切れるか、業界はビクビクものでいることは想像に難くない。
 昔は銀行から借金をしたり、支払いに手形を使うのは織物業者ぐらいのもので、その他、材木業界などですら延現金程度で、一般の小売店などは手形の書き方も知らなかった。
 最近は商売人の世界のみか、あらゆる取引に手形が普通で、素人が自動車を買っても売り手の方で手形を勧めるくらい、サラリーマンがチケットで物を買うことも一種小型の手形と変わりなく、借金が普通、手形取引制度こそは進歩した経済組織の特色と考えるような人心になって来たが、これこそものを生産流通する企業が、ただ金を管理することだけで事業を絞り、経済界に君臨する銀行の餌食になっているようなものである。
 最近もある実業家が銀行資本に対して露骨な増悪を一杯に投げつけた言葉を吐き「我々は埼玉銀行から骨までしゃぶられ、その埼玉銀行の頭取が慈悲の鳥居観音をこさえてみたところで、どうなるものか」と恨みつらみを並べていたが、全くこの声は県下の中小と言いたいが、県下にしては大企業を含めた大多数の事業家の声ではあるまいか。
 埼銀の平沼頭取は、親父さんが本妻以外の愛人を寵愛し、今の東銀座青柳医院のところの別荘につぐもりきりで、お母さんが日陰のような一生を送ったことに、子供の身としてお母さんが愛おしく、それが自分の名栗の本宅の前山に観音様をお祀りする発心の動機だと言われているが、銀行であまり数多くの企業家を泣かせ、そのために脳溢血になったり、電車、自動車に衝突して死んでいく人が出来る事にでもなれば、今度は平沼頭取の息子さんが親父さんの罪障消滅のために一寺を建立する様に発心しない限りもなく、かくては名栗村が寺で埋まり兼ねまいものでもなく、そのうち材木で家を作る時代が去って木材景気が終わりを告げれば、 名栗村は佛都として観光の聖地になりかねないものでもない。
 余談はさておき、今事業家が苦しんでいるのは、銀行が無理に押し付けて金を貸したわけではなく、罪の発端はむしろ借りる方にあるわけで、いわば自業自得と言っても良い訳である。
 銀行の金は別に頭取、株主の物でもなく、大部分は罪のない預金者のもので、銀行とすれば預金者の忠実な代行者として、この事業は見込みがない、経営がきな臭いと思えば、情け容赦のない態度で貸付の枠の縮少、打ち切りを宣して、自分、引いては預金者の財産の安全を図るだけのものである。
 だから、今後の事業経営は自分が可愛い、従業員が可愛いと思ったら、借金をしない事で、つまらない見得や深欲のために借金をしてまで店や工場を拡張しない事に心掛けるべきで、現に借金で首が回らないならば、世間体構わず潔く兜を脱いで、お手上げ、再発足すべきではないか。
 一度泥地にはまり込んだ自動車は、いくらロー、セコンドで後車輪を回転させても、いたずらに穴を深くしてやたら出られなくなるばかりだから、一度荷をおろして車輪をジャッキで持ち上げて、わだちに石を詰める以外には手がないし、これが回復の一番近道ということになる。
 記者は常々考えているのだが、今後の社会は例えば自民党のような政党でも、多分に社会政策的にならざるを得ないのだから、金を貯めなくても病気や老後の心配はそんなにいらない。
 国家の社会保障制度は暫時完備するからである。ましてや慢性インフレで金を貯めてみたところで、利殖の速度とインフレの速度が違えばバカを見るのだから、金などを貯めるがものではないか。
 それよりも現実の社会生活をより文化的に豊富なものにするために、入った金はどしどし使うべしである。さすれば物の生産過剰もなくなり、銀行の預金を減ってくる。
 一方では銀行から金を借りれば、選挙権すら自分の思いのままに行使できないしがらみにかけられる。
 しかも事業の利益は骨までしゃぶられることが分かって、金の借り手が行かなくなる。
 金の借り手がなければ利子が上がらぬから、銀行では預金に利子をつけるどころか、反対に保管料を取る様な事になり、やたら預金がバカバカしくなって、銀行の必要はなくなってくるのではないかと思うが、どうだろうか。
 そうなれば、平沼さんも観音様ばかりいじくっていられる御身分でなくなると同じに、衆生から恨まれる罪業も消滅して、安楽浄土に生きられるわけである。
 社会党や共産党の諸君は資本主義を攻撃するが、これは社会政策や外交政策の正面ばかりを責め立てているから、いつになっても敵は降参しないのである。
 資本主義に対する有効な攻め手は、減税貯蓄や生命保険料の税控除などと言う、さも大衆の利益を装って資本主義の牙城を大衆の陣笠で固めている事を見抜くことである。
 選挙の投票で自民党を倒す事は社会党の実力では当分望めないが、大衆が預金で銀行にそっぽを向くことによって、考え様によれば自民党の代議士も一兵卒の待遇資格で遇している資本主義の本城、金融資本という魔の王国は必ず崩れること間違いない。
 斯く論じきったところで、記者はこの論文がマルクス、レーニン、果ては日蓮、福沢以上の警世の大論文になっていることに気付いた。
 おそらくこの一文は昭和の革命的経済学説として、後世までも残るのではないかと、大いに快哉を叫んだところで初夢が破れた。
 そっと腰の下の布団を撫でてみたが、冷たいものも流れていなかったことは幸いだった。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?