真の独立日本に
コラム『あまのじゃく』1956/1/1 発行
文化新聞 No. 2031
年 頭 社 説
主幹 吉 田 金 八
もうとっくに独立国にさせて貰った筈の日本に『独立』が見えない。
独立国というのは民主制国家であるならば、人民の総意で外交も政治も国防も独往出来なければならない。今の日本は名目だけの独立国で、実際はアメリカの属領か、ようやっと従属国にせり上がった程度である。
だから何一つ自分の考えと利害では行動できない。日本の人民大衆がどんなに嫌がっても、富士山のどてっ腹にオネストジョンが打ち込まれ、砂川の農民が如何にジタバタしても、最後には原水爆を積んだ飛行機の着発に耐えるだけの飛行場に拡張されてしまう。
毎日異様な金属音を響かせて、基地の周辺では特異神経変態の人間にされてしまう様な心配さえ起きる程、無数に飛び交っているアメリカの飛行機は、相互安全保障協定によって、日本を含めたアメリカ圏の繁栄を守るためと聞かされてはいるが、 果たして日本も守られる仲間になっているのかどうか。
それならば韓国との漁業水域の問題なども、日本人漁夫のあの血の出るような悲痛な叫びに対して、国際公法に照らして公平な審判が下され、その審判の結果に双方国が服従させる国連の実力が行使されるべきではあるまいか。
なんだかアメリカの都合の良い場合にのみ、義務が課せられて、こちらの立場は一向に取り上げられない片務的な日米行政協定の様にしか思えない。
自衛隊の兵隊がどこかで『税金』と罵られた話があるが、国民の心にうつる自衛隊は、「他」衛隊の様であることを物語るもので、本当に祖国を守るものと誰もの心に感じられたならば『税金』と言った野次馬など袋だたきにされなければなるまい。
日本の立場は、芸者に例えれば(例えなくてもそのものであると断言できるが…)丸抱えの様なもので、身の周りのハイファイの音盤とか50何年型の自動車、テレビとか、衣装やお道具は身分不相応に立派だが、これがみんな置屋が借金を背負わせて、金縛りにかけ尻を叩く算段みたいなもので、知らず知らず日本の経済も、胴元をアメリカ資本に握られてしまった。
国民の総意が、『戦争は絶対しない』と誓っても、戦力なき軍隊が段々と戦力に移行する。国民の意思と国家の動きが、別々の独立国家に見える事など、随分変な話である。
これはどうにも仕方がない事なのであろうか。いや、断じて仕方ないことではない。それには国民が賢明になる事である。
軍閥とこれが背後の戦争屋に騙されて、無謀な太平洋戦争に巻き込まれた国民が『この愚を二度と繰り返さない』と臍を噛んだのも束の間、またしても、この二の舞の胎動が鎌首を持ち上げ始めている。
これを国民が気づかず、お調子に乗ったならば今度は肉親が倒れ傷つき、都市の何分の一かが焦土となった位では相済まされない。
形なりにもアメリカが一時の方策から与えた民主憲法がある。よしんば憲法がなくとも、『馬を水辺に引っ張っていくことは出来るが、水を無理に飲ませることは出来ない』のだから、日本人が本当に賢明で、勇気があるならば、真の独立国を勝ち取る事も決して不可能ではない。
大東亜戦争の罪の償いはすでに終わっている筈だ。
昭和31年こそ、真の独立を守るための門出の年としたい。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】