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保護法の適正運用

『あまのじゃく』1950/5/12 発行 
文化新聞  No. 15号
  


民生委員に望む

                                                                    (ある投書から)
      社長 吉 田 金 八
 
 『金詰まりだ、税金だ、差し押さえだ。こんな中で頬冠りして町から補助を受けて気楽に暮らしている奴もいる。衆目の見るところ実際気の毒とうなずけるものは別として、娘が二人も働き立派な男主人がいて毎日働き、少し位病気したからといって補助がもらえるとしたらこの程度の家庭は飯能町にも星の数ほどあろう。お互いに町民の負担を少しでも軽くするように民生委員も厳重に綿密に調査してから決定してもらいたい。と同時に厳重な再調査をしてもらいたい。』(活眼子投)
 新憲法によって国民は最低生活を享有する権利がある。特に疾病・廃疾・老幼にして自ら生活を維持できないものは公の扶助にすがらなければ生きていけないし、人道的にも社会連帯の精神から見ても公共の機関がこれを救護するのは当然である。
 相互扶助こそは文明社会の理想であり富める者は犯罪防止と慈善心から、まずしきものは生存権の要求と社会主義的から生活保護法の全き運営を望んでいる。
 現在飯能町の場合、旧飯能24名新町域は26名、計50名の民生委員の手により4月中の保護状況は生活扶助が203世帯758名、46万円、一人当たり約約600円、医療扶助が70世帯75名で22万円(一名あたり3千円)となっている。この費用の財源は町1、県1、国8の割合で支出される。飯能町の生活保護費の5年度予算額は1,062円で総予算の約21パーセントに相当するから、扶助の適用者の選考を公平適正にやってもらいたいとの投書子の希望もむりからぬ次第である。
 ところが民生委員もやはり人の子である以上、調査上の手抜かりもあろうし、貧困の観察も適切を欠く場合もあろう。時には多少の私情に動かされることも人間としてはあり得るわけで、誠に法の公平な運用こそ至難といえよう。しかし至難だからそれで良いと言うわけでは無いのだから、広く町の声を聞いてより以上の万全を期していただきたい。
 筆者の知っているある寡婦は、70歳以上の老夫婦に子供3人を抱えて米の担ぎ屋や卵売りして生計を立てているが、叔母さんなんかこそ扶助をもらったら良いのにとの筆者に答えて「うちではお爺さんが前に良い暮らしをしていたんだから、お爺さんの目の黒いうちは石にかじりついても町の世話になりたくない、と惚けた髪をかきあげて健気に語ったものもある。
 憲法は国民全部に健康快適な生活を保障しているが、現在大部分の国民は税金物価高にさいなまれ、餓死線スレスレの状態である。隣の家では扶助を受けて家中ノラクラ暮らしている、刑務所の囚人は腹一杯食って8時間労働であるが、善良な市民は12時間以上働いて生活が保障されない。この状態が進んでくると扶助を受ける家庭や囚人が羨望の的になってくる。
 理想社会には温かい社会福祉も、困窮社会には重過ぎる場合もあり得る。生活保護法、健康保険、失業保険、633制の教育制度も今後問題をはらんでくる。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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