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《オートバイ》西日本一周の旅(4)

コラム『あまのじゃく』1953/5/14 発行 
文化新聞  No. 709


修繕しながら牛の歩‥信濃川に沿って飯山まで

純朴に当てられた女房

    主幹 吉 田 金 八

 昨夜幕営したのは正確に言えば上田市より約4キロ西方、長野県小県郡川辺村の一部落。パンクした現場の近くにバスの停留所の小屋があるので、その後の空き地に地主に頼んで設営させてもらう。近所の子供たちが面白がって荷物を運んだり手伝ってくれる。
 炊事は人家が近く、近所で心配するといけないので隣家のカマドを使わせてもらう。
 幕舎は二台の寝台を広げると一杯になってしまう狭さで、ただ寝るだけである。
 8時半ごろまではバスに乗る人たちが停留所で立ち話をしている声が聞こえて、騒々しかったが、それ以降はひっそり閑となる。
 その内、雨がやってきた。心配した雨漏りもたいしたこともなく、「この雨では大変でしょうから、家に来て泊まっては」と気にかけてくれた隣家の後家さんらしい人の親切も「案外大丈夫そうですから」と断って、そのうちぐっすり眠って寝入ってしまった。
 夜中の2時ごろ近所の犬が私たちを怪しい一団と見たか、わんわん30分も幕舎の周りを回って吠えたてて止めないのには閉口した。
 前の家のおばさんらしいのが目を覚まして「クロ、クロ」と呼んでいるが、なかなか吠えるのを止めない。そのうち犬の方でも疲れたものか鳴き声も次第に遠のいて行った。
 翌9日は気持ち良い日本晴れである。8時半の川中島バスでパンクした後輪を外して、上田市まで持っていき、タイヤ屋でチューブを新品に代えた。
 あいにく電休日なのでエア・コンプレッサーが動かず、手間取って車のとこに戻ったら11時半になってしまった。
 それから出発、道は依然として国道という名前に相当して拡げられているが、凹凸が甚だしく、堅牢本位の陸王などと言うオートバイでは、衝撃がひどくて非常に乗りにくい。道の両側には、りんご園が多くちょうど花が満開である。
 長野市が近くなる川中島あたりから幅員いっぱいの完全舗装になっていた。国道の端の小学校で運動会をやっているのを見ながら昼食をとる。
 長野市に入る。さすが気候も良く参拝客の季節と見えて、団体・個人の客が連なって混雑している。
 市内のタイヤ屋で前輪に合うサイズのタイヤを発見して取り替えてもらう。出発の時から前後輪ともタイヤのヤマは摩耗して心もとない状態なので、行く先々で適当なものを見つけようと言う寸法なのである。これで前輪だけは帰路まで懸念なしになったが、肝心の後輪に合うサイズは長野市を二,三軒聞きまわったが、あれば4500円だなんて法外なこと言うし、まぁもう少し先に行って探すことにする。
 女房と子供を善光寺にお参りさせている間に、側車の中に収まって原稿を書く。
 長野市を出発したのが3時、それからグッと狭まった道を豊野まで走る。
 前方からバスが来ると避譲に骨の折れる道である。
 気温はグッと低く、野良でりんごの花を摘んでいる女たちも綿入れ半纏を着ているほどである。
 新潟に抜けるには野尻湖を経て信越線沿いに田口に出る道と、信濃川に沿って飯山に出て、富倉峠を越して高田に出る道とあるが、後者は3日ほど前から道路の雪が消えてバスが通い始めたといい、この方が道が良いと豊野の人に教えられて6時ごろ飯山町につき旅宿をとる。
 この町には、20何年か前に、雪のある時遊んだことがあり、当時友人の熱々の芸妓が飯山に住み替えていたので、蕎麦屋に上がって生まれて初めてサシで芸妓と言うものと語った記憶の土地であり、見繕いで料理を頼んだら、かまぼこを大ドンぶりに山と出されたほど純朴なころだった。今でも駅前には新市街が建設されようとして大工事が始まっており、古い城下町らしく山手に行けば仏具屋が数十件立ち並んで、古い色を漂わせているかと思えば、商店街にはネオンも輝いていても純朴さはかわぬらしく、上等なとこでなくて良いと断って止まった宿では、鯉のお汁やビフテキ、新潟の海で獲れて十日町線で運んだらしい生きのよい刺身やホタルイカなど盛りだくさんで、数ヶ月前に胆嚢手術したばかりの女房が、食いすぎて夜中に「また例の病気が起こったらしい」と一瞬青い顔をして驚かせる原因を作る程だった。
(長野でガソリン20リッター補給)


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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