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孤立と教員交流

コラム『あまのじゃく』1956/10/8 発行
文化新聞  No. 2415


町村合併の余波 ”教員の移動などは?” 

    主幹 吉 田 金 八 

 これは果たして真実かどうか。
 飯能の人達が名栗村を飯能市に吸収したいための作為の言い触らしかもしれないが、最近こんなことが伝えられている。
 『名栗では町村合併には村の有力者の考えで反対を押し通したが、最近非常な反省の声が村民の間に高い。それと言うのも三千五百名位の町村が、いくら金には困らないと言っても、二、三万の大きな市町村に挟まって、今後やっていけるかどうかという不安と、現実には近隣に今までの西部ブロックの如き同格の村を持たないことが、同村の小、中学教師の人事交流で行き詰まるのではないか』というのである。
 秩父山脈の麓に、飯能市と秩父郡との間に包まれて、孤立を守る形となった同村の村民や幹部が、何かしらの前途に不安を感じていることは、ある程度成程と頷けることである。
 本紙の名栗村の読者数は、支局の大変な努力にも拘わらず、この数年100部を超えることは稀であった。 
 ところが、この9月末日の町村合併の完成を前後して、同村の本紙読者の数が一躍倍以上にも躍進した事は、一体何が原因したのであろうか。
 町村合併の成り行き如何という興味ならば、9月の末が頂上で、以後漸減するのが道理であるが、 10月に入って著増というには、何か他の理由がなければならない。
 記者はこれを次のように解釈している。というのは、海外にある日本人が外国人の間に挟まって何よりも知りたいと欲するのは内地のニュースであり、模様である。鉄格子に隔てられた刑務所、収容所の人達も、それと同じ様にコンクリート壁の外のシャバのニュースを貪り欲するものである。
 名栗村は別にコンクリートの部屋や網で社会と隔絶された訳ではないが、行政的に隣村の吾野や原市場が飯能と合併して大行政区を形成した以上、自治体としては完全に一線が画された訳で、名栗村民としては自分たちが反対した町村合併の問題で、進んで合併した市町村が合併後の運営ぶり、合併が住民にどんな利害をもたらすか、自分たちの頭上には合併を避けた事による何らかの利害が現れるのではないか、という期待と対比しようという気持ちから、 付近の町村の様子を克明に伝える文化新聞を読もうという事になったのではないかと判断される。
 小中学校の教員の交流の問題にしても、飯能市に編入された旧原市場村の先生たちは、即座に地域級の加俸が受けられるが、名栗村にはそれがない。
 限られた俸給が1割多いか少ないかという問題は、俸給生活者には重大問題で、このために僻地の学校への先生の志望が制約されるという事もあり得るであろう。また適当な期間で教師を交替させたいにも、合併前は付近に多くの村同士があったのだから、やったりとったりも割合楽にできたが、今度は飯能、日高、西武、武蔵、狭山、毛呂山、越生、坂戸と交流する相手の数が減ってきたので、何としてもやりにくくなったことは否めない。
 合併せずに頑張っていたが、意外なとこに弱点が芽生えるといった事態も予想される。冒頭にも念を押したように、このことが現在、名栗で当面の問題になっているかどうか知らないが、いずれは問題の一隅に座を詰めるであろうことが予想される。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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