《オートバイ》西日本一周の旅(9)
コラム『あまのじゃく』1953/5/20 発行
文化新聞 No. 714
北陸路を一路西へ行く
恵まれた小浜小学校のキャンプ
主幹 吉 田 金 八
九頭竜川堤防上の一夜は、設営が失敗したのと驟雨のため安眠できず、朝になっても雨が止まないが、濡れた寝具などそのままコモ包みして小雨の中を出発、福井駅に至ってゆっくりする。
待合室で前日の原稿を書いている間に女房は洗面を済ませる。福井市はだだっ広い感じのする町で、見るべきものはなく、繊維関係が不景気なので、「このところダメです」と、町民は語っていた。
やや小降りになった雨中を鯖江、武生と国道を快走する。車の調子は全く快調子になり、タイヤのほうもこのところ心配なし。
武生にて5リッターとオイルを補給、満タンにして敦賀までの約8里余りの峠道に備え、武生を外れたある村で春祭りのお神輿に行きあたったので、子供があまり喜ぶので、車を止めてしばらく見物する。陸王の側車を『僕も軍隊で乗りました』という人、人品卑しからぬ人が話しかけてきたので、いろいろ旅の物語をしたあげく、「米を買いたいのですがよそ者では心配しか売ってくれません」と言えば「僕が話してあげる」と気安く付近の農家に女房連れて行ってくれた。
傍にいた農夫が「あれは、あそこのお寺の住職だから檀家に行けば否応はありません」と教えてくれた。
それからの峠道は、勾配はさしたることもなく、終始トップで登れるのだが、永いの永くないの、1時間も1時間半もかかる二峠で少々うんざりする。
ようやく峠を下り切ったと思ったら、今度は、急に視界が開けて前は海。ちょうど親知らず付近のような、それを聊か小規模にしたような海辺の山の中腹を相当走らせる。
敦賀がもう1キロの地点に、海岸の山服を削って盛んに石灰岩を掘っている。敦賀セメントの工場である。道路を横切って数条のトロッコが石を運んでおり、削岩機の音がかまびすしく、時折発破爆音も耳を驚かす。
眼下の港には岸壁があって、石炭が山の様に積まれている。石灰岩と石炭を原料とするセメントには絶好の地の利を得ているように見られた。
このセメント工場を経てトンネル一つ越せば途端に敦賀港である。
この港は期待していたより平凡な海運港で貨物岸壁には石炭がうず高く積まれてあり、もっぱら貨物本位の港であろう。
〇〇(*判読不明)の内港は小さなもので四国の宇和島、八幡浜と同じ位の規模で港町の気分は濃厚である。
市街はほとんど戦災を受けたらしく、焼け跡の空き地も多い。
松原公園と称する名勝『気比が浜』に車を走らせる。千本、万本の老松が白砂の海浜に繁茂して立石湾に臨んでいる景色は素晴らしい。
北陸総鎮守と称する敦賀神社に詣でて、さらに道を小浜線に沿って走る。
敦賀、小浜間21キロ、途中文部省指定名勝柴田氏庭園と言う碑を見て、どんな所かと思って立ち寄った。元禄初年に阿波野村の郷士柴田氏が自家の庭園として作ったものだが、園池、築山、池辺石、池中の島等木石の配置がよろしく、ときの藩主がしばしば鑑賞のため静遊されたもので、個人の小座園だが、金でもできて庭を作りたい人には大いに参考になるであろう。
5時小浜港に到着。芝浦製作所小浜工場、王子製紙貯木場等あって、若狭湾の中に小浜小湾があって、海は波静かな風光の優れたところである。
小浜中学校庭の片隅に絶好のキャンプを見つけ、職員の了解を得てこの海辺、松林の中に設営、恵まれた露営の一夜を過ごした。
「こんな所を一晩だけで出発するのは惜しい」とは女房の言い草であった。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】