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石の上にも7年
コラム『あまのじゃく』1957/6/1 発行
文化新聞 No. 2562
刷新の紙面を送るにあたって
主幹 吉 田 金 八
石の上にも三年という諺がある。
本紙が昭和25年2月にB4半裁のガリ版新聞として誕生してから満7年3ヶ月になる。初めは週2回無料配布を半年ほど続け、どうやら読者が定着したとの見通しがついたところで、確か1ヶ月の購読料を20円と定めて固定的なものを獲得した。
以来週3回になり、隔日から日刊になり、タプロイド2ページの活版になり、元加治分村当時から現在のタプロイド4ページ制となって、定価も月100円の時代が永く続いた。
本日をもって紙齢も2562号を迎え、8ポイント新聞活字を採用することによって、見違えるような紙面を提供することが出来るに至った。
既往を省みるに、誠に毎日が悪戦苦闘、明け暮れが努力の連続であった。
困難の第一番は経営難である。 新聞事業は東京の有力紙すら、 銀行管理に近い状態のものがある如く、誠に容易なものではない。事業の性質上、利潤追求の商業主義ばかりでは読者がついて来ない。
公益本位の大衆の広場的な生き方が新聞事業の持つ特色である。
ましてや、地方紙の経営が困難なことは、東京の近郊において特に甚だしく、埼玉新聞の度々の改組、千葉新聞の廃刊等の事実が明らかに例証している通りである。
本紙はまだまだ県紙と称するこれら各紙には遠く及ばないが、それだけに経営面は一層の貧困が伴うことも当然である。
これを克服して「購読も広告も押し売りしない」という大新聞以上の風格を持って8年間を押し通し、最近の飯能市議選などで、各候補者が体験した、20人も30人もの地方紙記者が押しかけて「お付き合い」を求めるような事は本紙においては絶対にない。当時、本紙に掲載された候補者の選挙広告も全部が候補者の申し込みによって掲載したことで、選挙関係者から「文化新聞の様なのは初めてだ」と賛嘆されるところに至ったことなども、本紙の特色を物語る一端であるが、こうしたあり方で文化新聞を今日まで育て上げることは全く容易でなかった。
しかし、私はこうした特殊な歩み方で、本紙を日本有数のローカル紙にまで持っていきたい、と八年間念願し続け、本日ようやく社会からも認められ、経営者としても十分の自信を持つ域に至ったことを、読者と共に喜び合いたい。
三年の石の上の苦労もようやく通り過ぎた。読者も広告主も文化新聞はこちらから申し込むものだと思い込むようになり、わずかな社員行員だが「こよなき天職」として、毎日の新聞づくりに興味と熱意を傾けるようになってきた。 まだ学校に通っている子供達も女房とともに新聞社にとってなくてはならぬ存在となっている。
本紙の如き小地方紙は、何よりもこの人的資源の整備が根底である。設備、機械等はいずれもセコハンだが、一応は面目を整え、活字なども主なものは自給自足出来るようになり、今後は写真製版も自前で賄える様にしたいと思うが、一般紙の世界水準の上を行く機械化には及ばないが、段々とその卵の様な形態をなす日も決して遠くないと言うことは申し上げられる。
本紙の今日あるはひとえに大方読者のご支持の賜物であり、新聞購読者を離れて存在しないのだから、今後とも心を引き締めて、より良き新聞として読者の期待に沿う様発展を期したいと思う。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】