冬
深夜、北風が街路樹を激しく揺らす。遠くから教会の鐘の音が耳をつんざくように響く。私はいつからこの場所にいたのだろうか。記憶がまるでない。もうずっと長いことここにおり、この場所で生まれたような気さえしている。私は金属の歯車だった。正確にはスパーギア(平歯車)だった。歯車の中で最もありふれているといってもいいかもしれない。何の変哲もなく、幼児の手にもやすやすと収まってしまうような存在、それが私だった。そして現在、木枯らし吹く風に運ばれ、通りを行ったり来たりしている。
向かいの路地から二人の男がそそくさと歩をすすめてきた。
一人はニットを深く被り、白い口髭を蓄えた老紳士で、もう一人はどうやら学生のように見える。二人とも私の目の前で立ち止まると、学生は気が立っていたのか、私を思い切り蹴とばした。
「君、どんなに些細な物でも丁重に扱わなければならないよ、歯車なんていうものは特にね。」
「役に立たないものを無下に扱って何がわるいんです?この錆びきった金属のように、期待された役割を全うできていないのにも関わらず、表象的な名をいつまでも持ち続ける存在に私は我慢なりません。」
「では君はその歯車はもはや歯車ではない別のなにかだといいたいのかい?」老紳士は蹴とばされた私をひょいと拾い上げた。
「その通りです。私は名前や名称、肩書というのはその物質が本来の役割を全うできて初めて与えられるものだと考えます。例えば、何かしらの部品を欠損し大破した車はもう走ることができないのにも関わらず、まだそれを車であると主張するのは大変傲慢な考え方な気がしてなりません。」
「では何らかの理由で本来そのものに期待されていた役割をはたせなくなった時、それはもはや名前をもたぬ存在、もしくはtrashの類だということかな。」
「その通りです。だからこの歯車はもはや歯車としての役割を全うすることはできていないのだから、これは先生のおっしゃるtrashの類のもの、つまり本来の歯車のような、些細な物として扱って貰える資格を失っているといえます。」
「だが、果たすべき役割の裁量は他者の主観に依存するということでもあるのかな。」
「そう考えます。この、役割を全うできるかどうかというのは周囲の承認次第であるということです。向かいにある信号機もその色が持つ意味を周囲の人間たちが承認して初めて期待された役割を全うでき、信号機という名称、つまり肩書が与えられるのです。」
「なるほど、だがそれは人間にも当てはまるのかい?」
「人間の場合、表向きには人権だの倫理だのと叫ばれていますが本質は同じだと考えます。わたしは現在、学生という名前を頂き、周囲から承認されていますが、何かの事故で学生的な営みを送ることができなくなった場合、私は学生という自己同一性を一つ失い、ただの人間に成り下がります。」
「面白い考え方じゃないか」老紳士はクスクスと笑う。
「世の中にはこの人間という名前を失っている存在も多数います。人間的営みを全うできていないやつがその典型です。」
「なるほど、君の言い分はよく分かった。だが、少し思慮の浅い考え方だと言わざるを得ないね」老紳士は私を覗き込みながら言う。
「確かに、人間的営みや学生的営みについての定義を具体化させる必要がありますが…」
「せっかくだ、明日の研究テーマは君のその凝り固まった考え方の何が問題であったのか考えるというものにしよう。」
老紳士は興味をなくしたかのように私をもとの地面に置いた。
私には二人が何を話していたのか聞こえない。二人のうち一人からはひどく侮辱的な視線を感じる。暫くして二人は木枯らし吹く寒い闇夜に向けて再び歩き出した。私はまた一人取り残される。もう歯車としての役割をはたせなくなった私にかまうものなんていないだろう。