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しりではなかったよる~父思う~

数年前のガラケーに残った意味不明な言葉。 ずっと消されないままでいたけれど、きっとこのまま充電し直してまで、当時を見返すこともないかもしれない。


 ある年の7月始め、義父の入院見舞いを届けに来た弟から、「父さん、血痰が出るらしい」と聞いたのが、父の異変を初めて知った日だった。
4月から義父の直腸がんの通院、手術、人工肛門のケアと連日がんセンターに行ったり来たりで、母の入院先にもなかなか行けなかった。いや、それを理由に母の現実を見ることから逃げていたのかもしれない。
当然、父の顔を見ることもなく、たまに届くショートメールのたどたどしい文章を見るくらいで、父がどんな不安な日を送っていたかなんて気付くこともなかった。
 20年以上前に大量吐血をした父は、当時輸血された血液製剤の影響で肝炎を患っており、長年内科に注射を打ちに行っていた。採血も検査も度々しているから、任せておけばよい。弟夫婦も姉夫婦も隣に住んでいるし、子ども達や同居の義父のことで手一杯。と当時の私は逃げていた。


 昔はもう少しかっこいいお父さんと思っていたのに、早々に総入れ歯にはなるし、いつもステテコ姿、着るものにも無頓着。そのくせ、すぐにキレて近所の人に苦情を言う…そんな父があまり好きではなかった。

それでも家族。
かかりつけの病院から、急いで市内の大きな病院に行って検査をしなさいと言われ、付き添った。
その日言われた病名が 『肺がん疑い』
父の目の前で画像と共に淡々と説明をするドクター。
(え?こういう場合、まずは家族に話があって、本人にはどう伝えますか?となるんじゃないの?)と思っていたのに…
元来気の弱い父は「がんやって…。もうだめだ」と落胆する姿を見せた。今でもその表情が忘れられない。
細胞診断をする為に後日入院したが、一泊で帰らされた。あの時あのまま入院させてもらえていたら何か変わったのだろうか。
数日とたたないうちに、病気はどんどん進んでいたようで、ある日熱が出たと連絡が入り、姉弟の中で一番動けた私がその日の救急病院まで付き添うことになった。
父を車に乗せた時につんときた異臭に顔を歪ませた。
後で知ったことだが、父はトイレに立つのも辛く、母が自宅に置いていた母用の紙オムツを父自ら穿いて過ごしていたのだという。

  お父さんごめんなさい…。

結局、救急病院での検査で色々な数値がかなり高く、本来入院を予定していたのとは別の病院にしばらく入院となった。
それは、母が昔入院していた病院。今は建て直されて当時の面影もなくなってしまったが、私がまだ小学生だった頃から母が腎臓が悪く入退院を繰り返した最初の病院…としてずっと記憶の片隅に残っている。

「今日はこれとこれを持ってきてください。」
父からたどたどしい片言のようなメールが届く。
「今日はこれとこれを食べました。」
食べられてよかったです。安心しました。
「オムツをおねがいします」
わかりました。あとで持っていきますね。
姉弟の中では姉と私とが比較的動きやすかった。住んでいる場所から病院までの距離で、何となく姉が母の担当、私が父の担当のような感じになっていた。その間姉は姉で同居のお義母さんの認知症やケガだったり
私は私で義父の人工肛門のケアだったり
もう今となっては思い出せないくらいのスケジュールで『市内の大きな病院コンプリート』と
笑いに変えるしかなかった。

結局父の病気は小細胞肺がんで、手術もできない。血糖値が高すぎて様々な治療に進めない。まずは血糖値を…と言われた。1日1日の血糖値に一喜一憂し、少しでも何かが食べられたとメールがくれば喜び、何とか元々入院予定の大病院に転院しても何の手も打てない状態にまでなっていた。大部屋に入っていたけれど、せん妄がひどくなり、手にはミトンが着けられ拘束されることも多くなり、看護師から、個室に移っていただけませんか?と言われるまでになっていった。
本当なら1日中でも付き添えば良かった。
あと何日しか残される日がなかったと知っていたなら。


夜中に電話が鳴り駆けつけた時には
亡くなったあとだった。
まだ温かい体温が残っている。

 ごめんなさい、お父さん…
見送ってあげられなくて
こんなに家族が近くに住んでいるのに
悔やんでも悔やんでも悔やんでも悔やんでも
きっとずっと悔やみ続けるんだと思う。

私は父があまり好きではなかった。
ほんとにそうか?
一緒にお風呂に入った記憶がある。
一緒に旅行にも行った。大阪の高速道路で見た大きな朝日を覚えている。
一緒に町内の運動会にも行った。
一緒に歩こう会とかっていうイベントにも行った。
幼い頃の沢山の思い出がちゃんと残っている。
お産で里帰りしていた時には、破水した私を乗せて病院までそろりそろりと運転したもんだ。なんで、そんなに遅いの?
双子の孫が産まれた時には喜んで抱っこもしていたし、孫の成長に目を細めてくれていた。
鬱陶しいと思うところもあった。何度も同じ話をしているのにうんざりすることもあった。でも、そんなことも全部含めて

 私は父が好きだった。ちゃんと好きだった。


『しりではなかったよる』
父が最後に私にあてたメッセージ。当時も今も意味はわからない。
何か食べたい物だったかもしれない。
何か食べた物の報告だったかもしれない。

奇しくも今日は父と母の結婚記念日だということにさっき気付いた。


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