~学生新聞に見る北海学園七十年史~(16)私たちの時代(後編)2021年4月~2022年4月
① “砂粒”の時代
開学から数年経って以来(あまり表立ない形で)語られ続けてきた「信念をなくして、雰囲気に流されやすい」“学園大の精神風土”はしかし、本学関係者がそろって「道内私学の雄」という地位に居直ることで漫然と変化を拒む態度を生じることもあった。
それは“平時”にあっては“カタカナ学部”などを設置しないことなどに現れ、コロナ禍と言う名の“非常時”にあっては各学部の裁量に“対面授業”の実施の是非を委ね、他大学ほどは厳しくサークル等の活動を制限しないことに現れていた。
2021年度のサークル勧誘活動は前年度に引続き(キャンパス内にポスターを掲示するという違いはあったものの)オンライン上を中心に展開された。
2020年5月3日に開催された「北海学園オンライン合同サークル説明会in2020」が大通チャレンジラボ主催であったのに対して2021年4月23日より3日間にわたって開催された「オンラインPR大会[1]」が「主催:1部自治会執行部 協力:キャップ投げサークル」であるなど、コロナ禍の混乱を脱しつつあった学生自治会が学内中間団体の活動に対してヘゲモニーを再び発揮するようになった。
しかし、その一方で大会のキャッチフレーズが「北海学園大学生が在籍する札幌中の団体を集めました!!!!」であったように、コロナ禍を通じてより一層“ポスト市民社会”的なアトム的個人としての(砂粒のごとき)“学園生”——コロナ禍に苦しむ一般的な「かわいそうな大学生像」に合致するような——を救済するためのイベントという側面が大きくなっていた(そしてそれは学生部も黙認するところであった)。
つまり学生自治会の再前景化は学内中間団体における規律と(全人格的)訓練を重んずる(フォーディズムと福祉国家の時代の)市民主義的学生自治論の復活を意味せず、むしろ学生自治会執行部の“中の人”たちでさえ学生自治に積極的な意義を見出せなくなっていた現実のあらわれだろう。
さらに付言すると、これら「インカレサークル」にも便宜を図るような活動は、自治会費の納付者(つまりは自治会員)かどうかを不問とすることによって、これまで自治会執行部などが繰り返してきた「自治会費の有効還元」という決まり文句を当の執行部を含めて
誰も信じていないことを暴露したとも言えるだろう。
② 〈前衛〉と「鏡」の戦後北海道史
コロナ禍という「非常事態」に対する柔軟な対応という形で多くの“建前”がないがしろにされる時代に、学生時代に自治会活動に携わり、その後も北海学園大を変えようとした者がこの世を去った。
2021年6月1日に亡くなった森本正夫理事長(当時)は1931年10月生まれの享年89歳という長寿の人。そんな彼は1970年に若干38歳にして「「経営の責任者になれ」といわれ、文字通り三日三晩にわたって考えた末に、専務理事の職を引き受け」[2]、1976年に理事長に就任してからは45年間学校法人北海学園に“君臨”していた。
彼は北海道札幌西高校(旧制庁立札幌第二中学校)を卒業後の1951年に北海短大(北海学園大の前身)に入学。
本人によれば[3]「農家の出ということもあって、農業を学びたいという気持ちがありました。(中略)北大農学部に、未開の地の農業開発を主に研究する「殖民政策」という科目があることは知っていました。そこで勉強したいと思っていました。その権威の上原轍三郎先生は定年で退官し、五〇年に設立された北海短期大学(北海学園大学の前身)の学長になっていました。母がいろいろ調べてくれて北海の方を勧めてくれました。」というような経緯があって北海短大の学生になったらしく、彼はその意味で北海学園大学に唯一存在する(と私がみなしている)学統である(北海道大学の植民学講座に源を発する)「開発政策」の下で学ぶことを目標に北海学園に入ってきたらしく、後述する通り、彼は“愚直”とすら言い得る程にその学統に忠実であり続けたと言えるだろう。
そもそも「殖民政策」とは誤記で、「植民学講座」というのが正しい。おそらくは意図的かつ悪気のない「改ざん[4]」であろう。
植民学講座は1887年に札幌農学校農学科の授業科目として現われた植民政策に源を発している。1907年に札幌農学校が東北帝国大学農科大学(この時農科大学学長に就任したのが植民政策を担当していた農学校一期生の佐藤昌介その人である)となった際には学科・講座制の中で高岡熊雄教授の開講する「農政学・植民学講座」となった[5](1924年にそれぞれ「農政学講座」「植民学講座」として分離)。
ちなみにこの時設置された農林法律学講座を担当したのが小林巳智次で、ちょうど40年後の1964年に北海学園大初代法学部長となった[6]。
数年後に植民学講座を引継いだのが後に北海学園大初代学長となる上原轍三郎であり、1946年3月に定年で退官するまで講座を担当した。
上原の退官と同じ月の25日に文部省の意向を入れて植民学講座を農業経済学第三講座と改称、定年退官の2年後の1968年に北海学園大2代目学長となる高倉新一郎が講座を引継いだが、1953年に法経学部が法学部と経済学部に分離した際に農業経済学第三講座は同第四講座(旧経済・財政学講座)とともに経済学部に移籍し、高倉もまた経済学部教授と農学部教授を兼務することとなった。
ちなみに同学科で農業経営学講座を担当した桃野作次郎は1986年に高倉新一郎から引継ぐ形で北海学園北見大と北海学園北見女子短期大の学長となり、農業開発論講座を担当した川村琢は1979年に北海学園大開発研究所の所長となった。
なるほど開学当時「北大の養老院[7]」などと言われたわけだ、と納得する次第である。
北大と北海学園大のつながりは植民学講座・開発政策論の系譜のみにとどまる程度のものではなく、後者の歴代学長のうち学生・教員として北大に所属したことがないのはたったの2人[8]のみであった。
さらに北海学園大の開学から半世紀以上が経過した2001年に行われた北大・北海学園大学長対談は冒頭から、同じ年に北大法学部を卒業した2人が「とくに大学院マスターコースでの2年間は、木造の古い研究室で朝から晩まで一緒に過ごし、ともに同じ釜の飯を食べた仲[9]」であることが明かされる程であった。
その対談のvol.2には北海学園大の熊本学長(当時)の「戦後、北海道大学に法文系の学部ができたことによって、人材が大量に育成された事実があります。道内の私立大学は文系が多いのですが、教員の6割程度が北大の学部や大学院出身者[10]です。少し大袈裟に言えば「北大の法文系なかりせば道内の私学なし」ですね。北大は研究者、教育関係者の供給源として大きな役割を果たしていますし、共同研究の面でも拠点になっています。そういう意味で適切な協力関係ができています。」という発言が見られる。
このように北大と北海学園大は常に補完関係にあった(互いが互いにとって必要不可欠な存在であるというわけではない)。それは両者がともに(どうしようもなく)北海道という(日本国家にとっての)“新天地”に絡みついた「開拓」という使命に基づき建学されたためだが、しかし誰もが知る通り北海道は既に“新天地”ではない。
そんな時代に「北海道社会の前衛」であった北大が北海道という土地を有効活用した学問を展開しているのに対して、「北海道社会の鏡」であるところの北海学園大はどこまでも道民のための普遍的な教育を展開しているという印象を受ける。
北大(生たち)が北海道発展という使命のみに縛られなくなったのに対して、道内出身学生が97%を占める北海学園大は常に“消費者”としての道民たちのために働かねばならないという構造が続いている。
現に道内出身の北大入学者は減少傾向にあり、かつ「現在、(北大)学部卒は64%、大学院修士課程の修了生は86%が道外に就職しており、貴重な人材が流出している[11]」のだから、今や北大生には単に数年間(時には十数年続くことはあるが)の大学生活を送る土地としてのみ北海道と関係している者が多いとすら言い得る。
今や北大は在日米軍基地に似た存在として札幌や函館にあるのかもしれない。
それに対して地下鉄東豊線と繋がることで固有の学生街(のようなもの)とともに“学園”そのものを札幌という都市に“溶かして”みせた北海学園大は、常に市民生活とともにある。
学園前駅から地下鉄電車に乗れば東豊線大通駅まで4分、東豊線さっぽろ駅まで6分で行くことが出来ることを学校法人北海学園はこの30年間宣伝してやまないのだが、真に重要なことは北海学園豊平校地の「点」性であろう。
学園前駅という点と地下鉄という線(メディア)の視点からは地下鉄南北線北18条駅と地下鉄東西線西28丁目駅はほぼ等価であり、学園前駅=豊平校地の都市への埋没性こそが日本国内でも数少ない存在となった大規模な二部(夜間部)の存立を可能ならしめているのだ。
これは札幌という都市のあり方を(ある程度)規定し、日本各地の在日米軍基地がそうであるように自らの面前に街を創出してしまった北大札幌キャンパスには到底模倣出来ないことであろう。現役学生数が1万人の大台に届かんとしながら全くと言ってよいほど街[12]を創出し得ないということはなかなか出来ることではない。
閑話休題。北大が北海道から解き放たれつつあるのに対して北海学園大は北海道と生死をともにしているという歴史の流れこそが、皮肉にも数多の北海学園大関係者たちが望んでやまなかった「北大との差異化」を定着させつつあるのだ。
戦前戦中の植民学講座は満州や南洋にはばたきつつあった。
かの高倉新一郎の『アイヌ政策史』の初版は大東亜戦争に際して伸張する国勢を寿いでいる。
つまり北海道開拓は後景化していた。「開拓者精神」とは日本人が満蒙開拓や華北分離工作などに狂奔していた1930年代にこそ(植民地官僚の側から)唱えられた言葉である。
しかし敗戦によって全植民地を喪失した日本国家は北海道を“新天地”と再定義した。
敗戦直後の財団法人苗邨学園(現学校法人北海学園)は謎の元陸軍中尉を中心として札幌郡広島村(現北広島市)に復員兵たちを収容した農業学校を設立する動きがあった。[13]
あまりにも分りやすい屯田兵のパロディである。それ自体は近衛師団が占領軍の目をあざむき禁衛府(皇宮衛士総隊)として存続しようと画策したことに類する歴史の狭間の小話でしかないのだが、しかし北海道の初期戦後史はまさに明治のリバイバルとして始動した。
既に北海道は単なる農村社会ではなかったから、昭和の札幌農学校たるべき学校は農学校ではないことが多かった。いかに北大農学部出身の教員が多くとも、農学部設立の動きが皆無であったことは時代の変遷を象徴している。
そのような時代においては総合大学としての北大の似姿をこそ道内私大に求めていた道内私大関係者も多かったのではないか。
しかしグローバル化にともない日本国家による北海道開発が後景化すると、北海学園大もまた同じように北海道開拓が後景化し、札幌農学校への“予備校”的性格が薄められ私学としの個性が育まれた昭和初期の(旧制)北海中学校がそうであったように、今後は(大学院教育を受けた人材の供給源であるとはいえ)北大とそれほど精神的な紐帯(反発なども含む)のない大学となっていく可能性がある。
上記を踏まえ、改めて森本正夫名誉学園長について振り返る。
彼は札幌西高の卒業生である。つまり、北海高の卒業生でもなければ札商高の卒業生でもない。私を含む現代の大多数の”学園生“もまたそうなのだが、彼の学生時代は北海・札商出身者が北海学園大の学生の7割程度を占めていたとされるため、現代とは事情が異なる。
彼は本項目の最初に引用した記事でも北海学園大(北海短大)を「北海」と呼んではいるものの、彼はそれなりに〈学園[14]〉的なところのある人物であった。学部卒業後に北大大学院に進学するあたりも〈学園〉的だと言える。
(この場合の「〈学園〉的」とは北海学園大を北大等の滑り止めあることを大学の特徴とみなし、学校法人北海学園全体にあまり興味を示さず、道外の学生に「北海さん」などと呼ばれた経験が(ほとんど)ないような、道内出身の一般的な北海学園大生の態度や言説のことであり、「〈北海〉的」とは北海・札商/学札出身者や体育会系学生を中心とした、(多少の)愛校心を核とする態度や言説のことである。開学当初は〈北海〉的学生が大多数であったが、昭和40年代の学生運動やマスプロ化を通じて〈北海〉的価値観が排撃され、民青系勢力の盛衰を横目に誕生した〈学園生[15]〉らが「地方の時代」とも呼ばれる昭和50年代に大多数となり、その頃に学内で「学園」という略称が支配的[16]となる。)
彼が対峙した民青系学生(運動家)たちや(数は少ないながら)全共闘派学[17]生たちは最初期の〈学園生〉であった。最初期の〈学園生〉らは〈北海〉的な北海学園大OBたちの反対者であったから、時に学校法人の枠組み内での北海高と学園大のつながりを「腐れ縁[18]」とまで言い放ちもした。
そんな民青系学生の敵であった彼[19]は当初、学校法人北海学園の理事会内では北海・札商の校友(OB)理事や校長らが大半を占める状況下で権威の地盤が弱かったためであろうか、北海・札商の味方として振る舞うことが多かった(とよく批判されていた)。
しかし、彼はその「二〇年構想」の結果として大学施設を多く建て、学園大よりさらに北海・札商と関係性の薄い北見大[20]の建学まで成し遂げている。地下鉄東豊線学園前駅の誘致はいよいよ〈北海〉的学生街文化[21]の衰退を招き、キャンパスの利便性に敏感な〈学園生〉(私たち〈学園生〉の北海学園大自慢ネタは地下鉄直結と大泉洋・似鳥昭雄くらいであることを想起されたし)時代をも招いた彼は確かに名誉学園[22]長の名に相応しいのかもしれない。
③ 未だ業を卒えず
当連載における第二部終了後の断章三部作の題は「私たちの時代」であるから、私たち自身について語ろう。そして、どうしてこのような連載が誕生し(てしまっ)たのかについても語りたい。
2022年度前期をもってついに私は卒業に必要な単位を取り終えた。それまでの、つまりコロナ禍下における講義スタイルについては既に多くの証言[23]があるのでここでは語らない。
私は2019年にあっさり失敗した浅羽靖の「美少女化」以降、明らかに“迷走”していた。
北海学園大という存在にも、今後の北海道にも期待することが出来なかった。地歴郷土研究会Gohkenやマチブラ部の幹部としての活動を通じて、それらに文句を垂れるための資格を得るために、それらを愛してやる努力を怠らなかったが、しかしその活動自体が本当は〈東京〉的なものに踏み込めない自分の心を誤魔化すためにしか思えなかったのだ。
そのため私自身は(平成後期に育った人間として)常に〈昭和〉の延長線上にある日本を目指し、どうにか国や北海道をあるべき成長線上に位置付けるべきか考え、そして北海道の人口が1000万を突破したifの歴史を妄想していた。
大学の講義は全てこの妄想を裏付けるためにあった、というのが在学中の偽らざる実感であり、裏を返せばそうでもしなくてはとても大学の講義を(真面目に)受けるモチベーションなど湧いてこなかった、と言える。
しかし、私は地歴郷土研究会Gohken前会長(2021年冬に引退)であり、かつその機関誌『幌都令聞』編集長であったので、妄想に耽ってばかりもいられず、大学の課外活動における知的水準の向上を目指し、本当はそれほど興味のない地理・郷土史に関する発表などを続けていた。
『幌都令聞』の創刊号「孤立を求めて連帯を恐れず」(以下、創刊号)が発刊されたのは2020年3月28日のことで、現時点での最新刊となる第6号「詩人と浮世のバラッド」(以下、第6号)が発刊されたのが2022年2月22日[24]のことであるから、奇しくも2019年11月末以来途絶えていた『再刊』の穴を埋めるように学内輿論の形成を志向[25]し発行されていた、とも言える。
創刊号では既に始まっていたコロナ禍による、大学生活の変化(兼部者の激増)を煽るかのように「出会いのある公式サークルに入部しつつ勉強系サークル(地歴郷土研究会Gohken)に入部せよ!」というようなことが記されていた。
しかし、この文章によって多くの学生が2020年度に以降に兼部の道へ走ったとはとても思えない。
幌都令聞における主張はあくまで、コロナ禍以前の学生が在学中を通して一つ(せいぜい二つ)に所属し、その中で飲み会などを通じ親密なキャンパスライフを送り、かつその親密さがまばらなものとなりつつあることを踏まえて“すき間時間活用”としての課外学習活動を奨励するものであった。
コロナ禍下の学生の多くは「あれもこれも」式に兼部の道を選び、かつ「かわいそうな大学生」である自分たちがサークルの運営に(あまり)リソースを割かないことによってそれを可能にしていたにすぎなかった。
ここに幌都令聞式「戦略的棲み分け型兼部」は(ほぼ)存在せず、『再刊』紙面で展開された多くのオピニオンが単なる現状追認・解説かそうでなければ「反動」であったように、幌都令聞式オピニオンもまた時流にあっさり追い越されてしまった。
コロナ禍を経て“大学ナショナリズム”が衰退し、「学歴厨」的に純粋な(立身出世のためですらなく)ステータスとしての学(校)歴をのみ追い求める人の多い時代に入学後に大学を「つくり上げる」ことを勧める言説が人口に膾炙することはなく、方や抽象的な「大学生」としての言説に、方や“個人主義”的ライフハック・“ガクチカ”や起業を勧める言説に回収されてしまったのではないか。
その現実に対して幌都令聞は自ら学ぶ“学園生”の記事を掲載する媒体として自らを半ば再定義[26]しつつ、それなりの頻度で新刊を発刊し続けたものの、編集長であった私自身の就職活動やモチベーションの低下によって発刊頻度は下がり、それを埋め合わせる新会員による寄稿も皆無であったから最後(第6号「詩人と浮世のバラッド」)には私と当時の会長による反・札幌五輪招致論や北海学園大学論のみを掲載する“評論同人誌”となり、北海学園大生はおろか、ツイッター上においてすら“過去の遺物[27]”となってしまった。
その長い地歴郷土研究会Gohkenの活動の中で私はあくまで北海道を知ることを通じて、北海道の地域特性から近代日本を貫く普遍的な何かを見出すか、あわよくば“創り上げる”ことを志向していた。それは地域特性や歴史性・地理的条件を無視した抽象的政論であってはいけなかったし、観光客的目線に同調して「北海道あるある」ネタで盛り上がることもなるべく避けたかった。
しかしこの活動方針は特に結実することはなく、私は2021年に会長を引退し、翌年の「地理研究会Gohken」への改称に対しては「社会科学系の総合学習サークルとしての性質が限定されてしまう」(要約)として難色を示したものの、最終的には後輩らの自主性を信じる形で譲歩した。
そんな折、私はこれまで「こんなものを真正面から書いたり論じても仕方ない[28]」としてきた北海学園大の歴史というものに向き合うこととなった。
その要因として単に大学生活も4年目を迎え、ようやく大学について何かを語る資格を得たと感じられたというものがあるのだが、それとは別に「歴史」というもの自体が自由[29]であり、かつ単なる年表やそれに類する事実の羅列[30]以外に北海学園大の「歴史」を語り得るとどうにか思える条件が整ったためでもある。
それまでの大学生活において私は自らの状況認識を欺いている気がしてならなかった。もはや「まちおこし」や「関係人口」などのミクロな努力の積み重ねや国政レベルでの適切なリソース再分配による国土の均衡的な発展(あるいは国土強靱化)は既に不可逆的に喪われてしまった過去を呼び戻そうとする「悪足掻き」に過ぎないのではないか。もはや時代[31]そのものがそれを不可能にしているのではないか、と。
これは地域経済学科生としては「命取り」となり得る悩みであったし、北海道開発の大義と可能性を否定しては北海学園大で学ぶ意義は(ほぼ)無い、と私は建学の経緯の学習を通じてほとんど確信していたため、どうしてもそれら希望を信じる学生であるしかなかった。
私は、2022年秋に、よく共に(道内)旅行をしていた同じ学科の友人と近い将来廃止されることを知っていた根室線を走る東鹿越行き列車の中である吐露をした。これまで私たちは多少の政治的スタンスの違いなどがありつつも、あくまで(「第0次世界大戦」とみなす人もいる)日露戦争後の地方改良運動から「1989年の革命」までの、せいぜい100年弱の「総力戦体制」の時代(日本においては「1940年体制」として結実した)、それもいわゆる高度経済成長期に憧れている、という互いに気付かなかった共通した感性が友情の基礎となったのではないか、と。
もし「北海学園大学の歴史」が“ある[32]”のならば、それは北海道開発という戦後史の徒花を咲かせようとした人たちの“後方支援拠点”としての歴史ではないか、と(その時点では明確に、ではなかったが)考えた私は、私たちの生きる(北海道開発に関しては)あまり希望のない時代[33]に近代的な「大きな物語」の終焉にも似た“ビターエンド”[34]を置くことで、どうにか歴史をと試みることにした。
何も歴史とは、必ずしも未来へ向かって過去を積み上げ希望を語るためのみにある営為ではない。「現代史を過去の反復として見る立場」は私がこれまで模索してきた「歴史」を学ぶ意義(それは確かにそこにあるはずなのに、語ることがとても難しいものとして眼前にあり続けた)であった、と感じた。
歴史とは単なる事実の羅列ではない、と信じられるようになった私にとって、学生新聞というものが初めて輝きうる原石だと感じられるようになった。それまでは、単に大学公史の貧弱さが故に仕方なく学生新聞をネタに取扱っていた節もあったのだが(今でもその節がまったく無いとはとても言えない)、自分が真に向き合うべき存在に思えた。
その時分に出会ったのがⅠ部新聞会である。
当時の会長がゼミの後輩だった縁で受けたとある取材がきっかけでこちらから「北海学園大学の歴史に関する記事」の執筆を打診した。その時点では単なる雑談のネタ以上ではなかったが、私が書かなくてもよいのに〈大学生〉としてのプライドのためだけに書き上げた北海道史に関する卒業論文がそれなりに評価され、調子に乗っていた2022年初頭に記事案は具体化し、新聞会が従来のHPではなくnoteページを開設することもあって、一号分の紙面に掲載するには多すぎた文字数という問題もクリアし、半年間の準備期間を設けた上で2022年後期の講義にあわせる形で当連載がスタートした。
2022年3月21日に北海きたえーるで開かれた卒業式[35]に私(たち)は“正装”で出席し、無事学位記を授与された。
こうしてついに大学を卒業したが、その3日前に時事問題研究会が開いた「卒業講演会」もまた私にとっては意義深かい出来事となった。
その会ではその年度に卒業、または留年する学生が各々“研究”したことや経験したことを好きなだけ話す、というものであったが、私は敢えて時事研初代会長(2021年度に法学部を卒業)の演題であった「地方分権改革と脱新自由主義改革~ぼくのかんがえたさいきょうのせいさく~」を受け継いだ「地方分権改革と脱新自由主義改革[36]~ぼくのかんがえたさいきょうのせいさく2022~」と[37]した。
これはコロナ禍期の大学サークルにおいて「軸」となるものを継承する“モラル”らしきものを後輩に見せようとしたためであったが、しかしそれは「地方分権改革と脱新自由主義改革」なる「総力戦体制の夢よもう一度」という発想[38]を(ある程度)諦める[39]ための批判的継承でもあった。
こうして2年以上にわたる連載が始まった。
私は未だに学業を卒えた気がしない。むしろ、北海学園大で4年間を過ごし、ようやく〈大学生〉になれたのではないか、とすら思っている。そう考えると学士への道はまだ半ば、といったところだろう。
就職にともない札幌を遠く離れ本道の果てに住み、大学で学んだこととは(ほぼ)無関係な仕事に従事しながら生きていく。そもそも大卒者と会うことの少ない2年間は、故郷というより「大学生活を過ごした街」としての側面が大きい札幌に帰らない限り、大学生であったことから始まる“何か”の無い生活の連続となった。かつて大学生(“学園生”であった人たちとそれなりに関わり、自らと比較したりすることで大学生活を(大卒者としての現在と地続きの)過去のものとする機会を見失ったまま、“生活”と当連載(的なもの)が見事なまでに二分化された。
おそらく、私のような元“学園生”はこれからも一定数生まれ続けるだろう。
こうして大学卒業直前期のまま温存された精神が新たなる知見という餌を貪り食らい、“生活”とは無縁に肥えてゆく。
しかし、連載初期はその完結まで不変と思われていた歴史観が、原稿を書き進めるうちに次々脱皮してゆく。実践は人の予想を超えて何かをもたらすようで、それを失敗とみなすかどうかは視点によって異なる。
大学生も、そうでない者もよく失敗する。しかし、その過程で行った何かが人生を思わぬ場へ連れてゆくこともあるらしい。この世に「何もない」場などないのだから、「何もない」とされる場から“何か”を見出そうとする思索が実践でないはずはない。「歴史なき時代」を先取りしてしまったこの〈学園〉は、この時代に“人間[40]”として生きるためには必要なこの種の実践力を養う場となり得ると私は実感している。
北海学園大学新聞「再々刊」第1号について ~あとがきにかえて~
再々刊第1号のデータをはじめて見た時、私は妙な懐かしさを覚えた。
紙面のレイアウトなどの“アマチュアっぽさ”は予想通りであったが、それ以上に紙面構成が5年前に発刊された再刊第170号と同171号とほぼ変わっていなかったのには少し戸惑った。
再々刊第1号の構成は第1面で対東北学院大学総合定期戦と硬式野球部、第2面で野球と卒業生紹介、第3面で十月祭と工学祭、第4面でアルバイト白書と各種団体の活動記録を取り上げていたが、これではまるで2019年の『再刊』のダイジェスト版ではないか。
卒業生紹介記事は再刊第168号(2019年4月2日付)にあり、硬式野球部(札幌六大学野球)記事は再刊第169号(2019年6月18日付)、定期戦記事は再刊第170号(2019年7月19日付)、十月祭(と工学祭)記事は再刊第171号(2019年11月29日付)にある。再々刊第一号の記事で同じようなネタを扱った記事が2019年の『再刊』に見当たらないのはアルバイト白書記事くらいなもので、各種団体の紹介記事は当然毎号に見られる。
肝心の記事がかつての『再刊』に忠実(工学祭の写真掲載はとても新鮮に感じられたが)な上に、紙面構成のアドバイザーが2019年度入学の元新聞会会長であったことを踏まえると、私にはやはり、『再々刊』と称するだけの絶望的な断絶などありはしない、と感じられた。
このように定期戦記事で一面を飾って再出発するというのは、あまりにも「北海学園大学新聞第一号」と似ている。この「第一号」は1977年に発刊されたもので、むろん真に創刊号ではないのだが、過去との断絶を強調する作風はこの「再々刊第1号」そっくりである。
だが、2024年8月31日に発刊されたのは「再々刊第2号」ではなく、通算第298号となった。「今後休刊などをした際に「再々々刊」と複雑になる可能性などを考慮し、1952年の創刊号からカウントする「通算」を号数表記として統一する運びとなった。」(通算第298号より)ためであるが、どちらかといえば大学側などにこの「断絶」が好まれなかったためであろう。大学側としては「再刊」の復活ですらなく、とにかく「長い歴史」を感じさせるものを作ってほしいのだろう。確かに長い歴史を通して把握することは重要である。
しかし、再刊第171号と再々刊1号との間にあるとされた断絶は、第124号と(再刊)第1号の間にある断絶とまったく異質なものではないか。1977年の第1号は過去と自らを切り離そうとする意思の表れであり、「「前の歴史とは決別したい」という学生の意思が「再刊」と付ける経緯に至ったと、当時学生課長を務めていた斎藤和夫氏は語ってい[41]る」が、「再刊」自体が「他大学、本州など伝統ある大学と比較すると学生新聞の歴史も浅く「一二五号から始められれば」と斎藤氏も考えた」ような立場と学生側の妥協の結果として、「断絶された過去」を想像させずにおかないナンバリングとなったはずだ。
再刊第1号との類似性やその断絶に比べると、「再々刊」は「無印」(1952~1976)や「再刊」(1977~2019)に続く第3期学生新聞ではなく、「再・再刊[42]」というべきではないか。「再刊」的なものはコロナ禍を経て繰り返されており、歴史の反復性を踏まえることが速報性に欠ける学生新聞に求めら[43]れるだろう。広い意味での〈学園生〉は「再刊」的なものを離れて自由に振る舞うことを実質的に禁じられている以上、嫌味ったらしく「再刊」に居座り続けるべきではないか。
さて、偏執的な卒業生の立場を離れて屈託なく発刊された通算第298号を見ると、全8面構成となっていることもあり、定期戦・学生団体・学内記事・課外団体特集・スポーツ・北見大学など、北海学園大に関することが満遍なく取り上げられており、写真撮影など技術的には未だ発展途中ではあるものの、内容に関しては間違いなく今世紀でもっとも面白いものとなっている。
第1期・第2期の「再刊」が狭義の〈学園生〉(豊平キャンパスの課外団体に所属している現役学生)に特化したメディアであったのに対して、現在のⅠ部新聞会は再々刊第1号での初の工学祭特集や通算第298号での『北海学園北見大学とはなんだったのか』など、北海商科大との合併や工学部の豊平移転すら現実性を帯びている森本理事長期以降の全〈学園〉を視野に収めたバランスのよい活動をしている。
通算第298号の記事にもある通り[44]、今まで学内で偏差値の高い学部とされてきた「法学部と経済学部における志願者数の減少」や「年々志願者1人が受ける大学数も減少している、すなわち専願に近い状態で受けていることが多い」傾向が全国的に見られる中、筆記試験において道内国公立大学の受験に失敗した道内在住の高校生や浪人が学歴コンプレックスとともに〈学園生〉となっていく時代は終わりつつあるのかもしれない。「基礎学力よりもコミュニケーション能力に代表される総合能力を重視する選考方法」とはつまり、体育会系的な側面を抜きに〈北海〉的学生を集めようとする思想の表れではないか。
今や豊平キャンパスに規定された〈学園生〉的なものは薄まりつつある。あくまで〈学園生〉の歴史に拘り続けた当連載はコロナ禍による正常な新聞会活動の隙間においてのみ許された例外的存在に過ぎない。過渡期を乗り越えたⅠ部新聞会は良い意味で過去の歴史に囚われない、日本の学生新聞界における中堅団体としての存在感を発揮する日は近いのかもしれない。
(完)
[1]『新入生向けサークル説明会 オンラインで開催』(2021年6月1日付『学報126号第7面より』
[2] 『私の中の歴史 教育は人づくり① 学校法人・北海学園理事長 森本 正夫さん』(2006年7月3日付北海道新聞夕刊第3面)より
[3] 『私の中の歴史 教育は人づくり④ 学校法人・北海学園理事長 森本 正夫さん』(2006年7月6日付北海道新聞夕刊第3面)より
[4] これは当連載でこれまで扱ってきた「百周年ずらし」や大学紛争に対する語りなどに通ずるものがある。
[5] 北海道大学百二十五年史編集室『北海道大学百二十五年史 通説編』(2003年・北海道大学)より
[6]北海学園創基百周年記念事業出版専門委員会・北海学園大学三十五年小史編集委員会『北海学園大学三十五年小史』(1986年・学校法人北海学園)より
[7] 『卒業生の視点 北海学園大学草創記7 池田教授と就職問題』(2003年3月15日付『学報』第50号第5面)より「「本学は北大の養老院なのか」あまりにご老体の多い教授陣に、業を煮やした一部の学生が投げかけた言葉である。確かに長老の先生が多かった。しかし、前記のような発言をするのは優秀な学生であって、大多数は無関心派だった。」
[8] その2人とは第3代大和哲夫と第10代安酸敏眞であるが、少なくとも後者については北大の非常勤講師を経験している。(安酸敏眞『退職にあたって』http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/4610/1/06)
[9] 『北海道大学・北海学園大学学長対談 vol.1』(2001年10月15日付『学報』第43号第)2面)より
[10] 1986年1月25日付北大学生新聞第100号第3面には「北海学園大学理事長 森本正夫氏」による「北海学園の先生の九十%くらいは北大出身です。別に学閥を作っているわけではありませんが、若い先生から年輩者までかなりいます。」という発言があり、北大へのリップサービスの可能性を踏まえると、実際に9割を超えていたかは定かではないものの、「北大の法文系なかりせば道内の私学なし」的な認識が示されている。私見ではこの1986年の「九十%」が2001年の「6割程度」にまで(北大出身者率が)減少した要因のひとつとして、「教養部に長く勤めた菱川善夫が、自ら創った人文学部に、教養部からは一人も参加させなかった」(『七十年記念誌』所収 佐藤淳「人文学部を創った人のこと」)ことが関係している可能性があるが、現時点では可能性を指摘するのみに留め置く。なお北海学園大人文学部の設置は1994年のこと。(ただし、この「6割程度」は道内私大全体のことであるため、2001年時点での北海学園大自体の比率は不明ながら、おおむね同程度と予想される)
[11] 『「道内向け入試枠」北大が検討 卒業後の地元定着狙う』(2023年7月2日付読売新聞オンライン)より
[12] もちろん今も昔も北海学園大生に愛される店は多数存在しているのだが、それらが「街」を形成するには至らない。
[13]その際に農業学校のベースとされたのが現在の学校法人北海学園の所有する「北広島仁別森林地」ではなかったのだろうか。
[14] 山直朝史『〈学園生〉の誕生 ~〈北海〉と〈学園〉の戦後七十五年史~』(2024年10月13日「ガクリ祭刊号」所収)より
[15] 1981年4月11日付『再刊』第15号第2面内の大和哲夫学長(当時)や菱川善夫学生部長(当時)や五団体所属の学生による座談会の見出しにも「学園生の学生気質とは」とある。
[16]〈学園大〉の全盛期とも言えるこの時代の最中、「北海学園百周年」とされた1986年に吉沼史祝(経済学部第3期卒業):作詞、彩木雅夫(経済学部第3期卒業):作曲「北海学園大学創立35周年を記念して制作」(豊平会HPより)された新学生歌は「百周年」でにわかに流行っていた〈北海〉的懐古ムードのためなのか、「北海の/若き勇者の象徴(しるし)なる/伝統(れきし)のほこり君知るや」(一番)、「北海の/熱き希望の象徴(しるし)なる/開拓精神君知るや」(二番)など説諭調の歌詞となっており、三番など「質実剛健君知るや」と北海高校の「基本精神」を説くなど〈学園生〉に対する〈北海〉出身者の苦言とみなすことも出来る。また、新学生歌の題「北の都に」は作曲者の彩木雅夫とともに新聞会初代編集長にして対東北学院大学総合定期戦の立役者でもある宮崎文彦(経済学部第3期卒業・当時北海学園大学三期会会長)による命名(『北海学園大学同窓会50年のあゆみ Pioneer Spirit〔1954~2004〕』より)だが、これは作詞者の吉沼史祝が「“都ぞ弥生”“都の西北”と広く多くの人にうたわれている有名な学生歌がありますが、何か通じるニュアンス的なものを感じます」と記した通り、この時期に人口に膾炙した「北の早稲田」という北海学園大の俗称を〈北海〉的な私学精神のキーワードとして活かすためのネーミングではないか。
[17] 2024年7月31日に『極北の全共闘』編集委員会によって発行された『極北の全共闘 ―あの時代と私たちの55年―』(クルーズ)所収の佐々木一夫(2024年11月現在はれいわ新選組所属の深川市議会議員)による「私の北海学園大学闘争史」において「学費値上げの理由は、大学は黒字だが高校(北海・札商((当時両校))が赤字で(法人としての財務プール制))、元々が北海・札商の生徒でも入れる大学を創るということで、両校の生徒の親からの資金を募ってできた大学なのでその両校のために恩返しをするのだ、というものだった。だが、時代は変わりつつあった、新設された工学部は私を含め国立大学受験失敗者の受け皿であり、文系もそうなりつつあった。いわゆる受験校からの入学者が増えていた。要は北海高校附属大学から「普通の大学」になる、その過渡期であった。」と『〈学園生〉の誕生』で示された歴史観とほぼ同一の見方を簡潔に示している。ちなみに佐々木氏は解放派の活動家として工学部生を中心に「学園大学プロレタリア統一戦線派」を結成し、「沖縄解放闘争」と内ゲバの過程で解放派を去って以来、工学部自治会を創設(「豊平校舎民青執行部への嫌悪感はひどく、工学部自治会を創るべきだと思った。マルクス勉強会を始めた豊平校舎に対し、工学部は、一年の準備期間のあと、ノンセクトや日中派など「後輩たち」を糾合して学部自治会を創設し、最初の選挙で民青の三倍の票を得て自治会執行部を担うことになった。自治会旗もヘルメットも紫にした、第二次紫ヘルメット部隊の登場である。」したとされる。
[18] 『値上げ理由なし 健全財政明らかになる』(1971年6月23日付学生新聞第105号第1面)より「まして二重、三重に学生の払った金が、その他の収入が積立てられ、北海札商との腐縁が切れさえしたら立派な庶民の大学(低授業料)ができるであろう。」
[19]『北海学園大学同窓会50年のあゆみ Pioneer Spirit 〔1954~2004〕』所収の「四○年目の思い出 杉山隆俊」は1964年に自治会執行部選挙に保守的なノンセクトと思われる「蝸牛会」を率い、「体育会の応援ももらい大差で当選」した筆者の回顧録で、定期戦における特設応援団の設置などの思い出について語られているが、その他にも「我々の想いを後輩に伝えたいと、次の執行部に仲間の後輩を送りこむ事が出来、私共は無事卒業できなした。当時、開発研究所にいた森本正夫先生にはいろいろ御指導頂きました」とあるように、これら保守系自治会執行部もまた(むろん民青系学生には及ばないまでも)それなりの“党派性”を有し、かつ森本正夫による「御指導」によるところがあったことを暗示している。
[20] 北見時代はそれなりに〈学園〉的大学であったのだろうが、しかし札幌移転後は「北海商科大学」と改称したこともあり、かつ北大の滑り止めとみなす人もほぼ皆無なので若干〈北海〉的になったと言える。
[21] 『北海学園大学同窓会50年のあゆみ Pioneer Spirit 〔1954~2004〕』には「北海学園大学の正門のはす向かいに、岡田屋という食堂があった。(中略)暖簾をくぐる学生たちは皆、自分の家に帰ってきたかのようだった。腹をすかせて現われる者の多くは野球部、柔道部、卓球部、バスケットボール部など体育会の学生で、彼らの間では“わからないことがあったら岡田屋に行け”というほど、生活の中心に岡田屋があったという。」や体育会が(学生自治会体育部から改組する形で)成立するきっかけとなった1954年の動きを「岡田屋事件」「すべては岡田屋から始まった」と記すなど、その存在を伝える文章が複数見られる。
[22] 極めて〈北海〉的な人物が「学園」という語を多用することもあったが、この場合の「学園」とはあくまで学校法人北海学園のことであり、名誉学園長の「学園」もまた同じ意味。
[23]北海学園大学法学部公式HPに掲載された第57回法学部カフェに関する記事(https://law.hgu.jp/info/20220407-01.html)など。
[24] 実際に発表されたのは同月27日のこと。
[25] 『幌都令聞創刊のことば』(2020年3月28日付『幌都令聞』創刊号「孤立を求めて連帯を恐れず」内)より「私は当会(地歴郷土研究会Gohken)を令和の北海学園大学のサークル文化の旗手とするべく活動しようと心がけてきた。そのためには学外にも当会の活動内容を知らせる必要があると考えた。」
[26] 『会長講評』(2020年5月24日付『幌都令聞』第3号「新しい季節はなぜかせつない日々で」内)より「そもそも幌都令聞が創刊された直接的なきっかけは彼(※同号内心霊エレベーター検証記事の筆者。後の地歴郷土研究会Gohken3代目会長)が解体される富樫ビルについて取材する際に「取材で得た知識を何らかの媒体で発表することで取材しやすくなるのではないか」ということを言いだし、私に何か媒体はないかと訊いたことであった。私は商業施設の歴史を含めた会員の調査したことを載せる媒体はないと答えたが、それではつまらない。では作ってしまおうというわけで幌都令聞を創刊した。「会員個人の学習を支援することを設立の主目的のひとつとして掲げた当会としてはこれくらいのことはしなくては存在意義するら疑わしくなってしまうのだ。」
[27] 2024年6月13日時点で誌面ツイート(ポスト)の“いいね”数が、最も「調べ物」的側面の強い第2号「CHAIN~まち続けることは苦しいから~」が27であるのに対して、独自調査による学習成果の発表が皆無な“同人評論誌”となった第6号「詩人と浮世のバラッド」はたったの2である。
[28] その認識なくして「北海学園浅羽しづかファンクラブ」などという奇策は存在しなかった。
[29] 具体的には2021年9月頃に読んだ與那覇潤『平成史 昨日の世界のすべて』(2021年・文藝春秋社)の強い影響による。
[30]『北海学園大学 135年の歴史』(2020年11月28日付 北海学園大学新聞Online)(北海学園大学 135年の歴史 – 北海学園大学新聞Online (wordpress.com))などが具体例。ちなみにこの記事において北海学園大の歴史は「135年」とされているが、これは2018年の北海学園大入学式における学長式辞と同じような、典型的な北海英語学校を「大学の基礎」とみなす誤謬を犯している。北海英語学校は(旧制)北海中学校の前身であり、あの戸津高知も北海英語学校を卒業してから札幌農学校へ進学している。私が2021年6月から(現時点では2022年9月まで)断続的に(当連載の前身とも言える)『シリーズ北海学園大学新聞の戦後史』(全21回)を連載したのもまた、北海道史において明治開拓期と現代を短絡するような史観(北海学園大学=北海英語学校史観のような)を打破し、北海道史と北海学園大学史を連結させ、大学史を大学ナショナリズムの玩具ではなく、当事者らがその中で歴史と自らの「対話」を行い得る強度のあるものとするためであった。
[31] 私がこの時代性を自覚するきっかけとなったのは與那覇潤『中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋・2014年)の巻末に収録された著者と宇野常寛の特別対談内にある原発誘致のくだりを読んだことであった。読者諸賢もぜひご一読あれ。
[32]“ある”というのは、「楽しく語り得る存在である」ということであるのかもしれない。表向きの言葉とは裏腹に「北海学園大学の歴史」は“ない”という立場にあるとしか思えない、あの2020年の『北海学園大学 135年の歴史』の筆者がどれだけつまらなさそうに、水をよく噛んでから飲み込むように事実を羅列していたことか。それを振り返る時、「歴史はある」と能天気に語る衒学者たちに対する憤りもまた、『平成史』や『中国化する日本』のうちに見出した視点であった。とある存在を「ある」と嘯く当人たちが、その存在を「ない」と感じていることに気付いてしまった時、その存在を信じることは世の中の誰もがそれを「ない」と叫んだ時よりも難しいことだと感じるだろう。
[33] もちろん「希望のある時代」の歴史を書くことは“可能”であるし、私はこれまでの大学生活の3年間を希望の根拠を探すための回り道に費やしてきた。それはおそらく昭和後期の学習まんがばかり読んで育った“平成生まれ”の悲しい性というべきものに由来する態度だろう。
[34] 例えば「歴史の終わり」へ続く歴史としての平成史など。
[35]正確には「令和3年度 北海学園大学 卒業証書・学位記授与式」。
[36] 実際の講演ではホワイトボードに記された脱~部分をイレイザーで軽く拭くことで抹線を表現。
[37] 内容は総人口の減少が続く日本国では「魅力競争の内面化」や「自治体間の恋愛レース」が展開されており、それを助長しているのが「ふるさと納税」制度であるというもの。しかしそれこそが東川町のように外部の視線を取り入れた“まちづくり”にも役立つのではないか、と希望を示しもした。
[38] 2021年10月の衆議院議員総選挙に前後して私が調べた限りでは当時の時事研のほとんどのアクティブメンバーが(消極的)国民民主党支持者であったことは、ネット上における消極的国民民主党支持者たちが平成期の諸改革に対して批判的であることとあわせて示唆に富む。
[39]私は入学当初の浅羽ちゃんFCのような、学校法人北海学園の公式史観の異端的活動から遠く離れ、あくまで〈大学〉を見つめる〈学園〉生であることを選んだ、といえる。北海学園大には私学的・道産子的・北海高的な〈北海〉としての側面と、戦後北海道において北大の“外延”であり続けた民青的(?)・「北海道の滑り止め」的な〈学園〉としての側面(そもそも「学園」とは北海学園大学のうち北海道大学と被らない文字だけを抜き出したものだ)があるが、私は最終的に後者の側につき、そして〈学園〉の輪郭を画き出した。だが、それは現代の北海高校のあり方や教育とは(ほぼ)無縁なところで北海学園大が北大の(相対的)脱道民社会化によって否応なく〈北海〉的な存在となってしまう、という意味で〈学園〉史にピリオドを打つことではなかったか。
[40] この場合の人間が何であるかはさておき、「動物化」したポストモダンの住民ではないことだけは確かだろう。
[41] 『記念特集 Ⅰ部新聞会 再刊30周年』(2009年11月30日付北海学園大学新聞131号第3面)より
[42] 1990年代初頭の「第二の再刊」を踏まえるとむしろ「再々・再刊」ともいえる。既に事態は複雑なものとなっているのだ。
[43] 山直朝史『令和6年の“学生新聞論”』(2024年10月13日「ガクリ祭刊号」所収)より
[44] 『変わる入試方法―2026年から』(2024年8月31日付北海学園大学新聞通算第298号第5面)より