【小説】『万華鏡ロジック』 二話
「どうして誰も分かってくれないの?」
二人は喫茶店にいた。
嗚咽を漏らしながら話している二十代前後の女性は暗い茶髪に染色された髪をハーフアップに纏め、白とベージュの色を中心としたワンピースを身に纏っていた。カオルは彼女の対面に座り、コーヒーを啜っている。女性はカオルが絵のモデルを依頼させてもらっている相手である。馨は彼らと交流する事により絵を描くためのインスピレーションを得ることができた。
「私は可笑しくなんてない……正常って、普通ってなんなの? 私は病気じゃないわ!」
それなりに大きな彼女の咽び泣く声は静かな店内に響き渡る。お店の店員や数名の客達からの視線がチラチラとこちらを向いていたが気にせず、馨は彼女の話に耳を傾ける。
自分が思い描く体のイメージと自分の体がかけ離れていて、自分の体を自分の体だと受け入れられない。そんな苦しみを抱える彼女は身内含めた他者からの理解を得ることができず、精神疾患として扱われてきたようだった。
「どいつもコイツも私を異常者扱いして、性同一性障害だって少し前だったら病気扱いさてれてたじゃない……なのになんで私は病気扱いなの……」
――普通の人間に、なれるものならなりたかったですか?
「ええ……周りがそうしろって言うから……そんなふうに思っていた時期もあったわ……でももう、正直、分からない……分からないの……」
◇
自分が異常な存在なのだと気がついたのはいつだったろう。
僕の住む家は古いレトロな一軒家で周囲に並んでいる家と比べて広い庭を持ち、都内西部の草木が豊かに生い茂る地域に建っていた。
大学に勤務し人間嫌いで引き篭もりがちな化学教師の父と自由奔放な母。僕が小学校に上がる前までは良妻賢婦を絵に描いたよう女性だった彼女は祖母が亡くなった途端、肩の荷が降りたとでも言うように言葉遣いにも人への振る舞いも気を使う事をやめてしまった。それは、それまで抑制されていた行動のタガが外れたと称すればいいのか……べつに祖母が特別厳しい人だったわけではない。初めはきっと周囲の期待に応えようとしていただけだったのだろう。母の気持ちもわからなくはなかった。そして胸に溜まっていた彼女の不満と怒りはそれらを理解しきれなかった父へ矛先を向けた。こうして両親の夫婦仲に歪みが生まれたのだ。
あれは……たしか……僕が小学四年生の頃で、夜中に両親が口論をしていたことを覚えている。大声で喚き散らす母の声に目が覚めた僕は布団から起きあがるとリビングへ向かい、ドアの隙間からその修羅場を見た。
「いい加減、病院に通えばいいじゃない。いつになったら治るのよ!」
「私の気持ち考えたことある!」
話の内容まではよくわからなかったものの、僕は幼ながらに只ならぬ不安を感じた。ヒステリックに怒り狂い、父に罵声を浴びせる母とその目の前に跪いている父は教会の告解室で罪の告白を迫られた罪人のように俯いて「すまない」となん度も繰り返していた。
母が突然いなくなったのはその翌日の水曜日だった。その日の夜、帰ってこない母が心配になった僕は食事をしながら父に問いかけた。そして父は母について「あいつは出て行った。もう戻って来ることはない」とだけ言い残すと、詳しいことは何も話してはくれなかった。その顔に表情はなく生気はやどっていなかった。
母が家を出て行ってからの父はこれまで以上に書斎へ引きこもるようになった。いつも鍵のかかっている父の書斎には幼かった僕の好奇心をくすぐるものがあり、一度だけ侵入しようとしたことがあった。入ろうとはしたけど勿論、鍵がかかっていて正面突破は不可能。ならばと窓から入ろうと試みるも書斎の内側から木製の板のようなもので窓が塞がれており窓ガラスを割っても入れる訳がなく断念した。後日、存命だった祖母から――人体に危険を及ぼすような化学薬品がしまわれているから、誰かが間違えて怪我をしないように大切に保管している――と説明されたことがある。父があの部屋で実際、何をして過ごしているのかは知る術がなかった。
中学生になると第二次性徴を迎え声は掠れ、背が伸びた。成長と共に漠然とした小さな違和感を持ち始めたのはこの頃だ、クラスの友人は異性に興味を持つようになり、校内で人気の女子や好みのモデルや女優の名前を上げたりしていたのに対して僕は異性に性的な興味を持つことができなかった。決して性欲がないというわけでも身体に問題があるわけでもはない。一度目はあるとき美術室に飾られていた、腕のない女の彫刻を撮影したフォトパネルを観たとき、二度目はデパートの婦人服売り場で見かけた腕のないマネキンにたとえ難い魅力を感じたことだ。
そして、僕は生まれて初めて性的興奮を覚えた。それをきっかけに自分のなかである疑惑が産まれた。以前から自分は性的欲求を感じない人間なのだと思っていたのだが、自分が普通の異性に欲情できないだけであり、性的欲求が生まれなかっただけなのではないのかと。
高校生となってからも疑惑は肥大化を増しているばかりだった。クラスメイトの女子やテレビに映るモデルや女優、異性が目につくたびに視線は彼女らの腕へ吸い寄せられる。あの腕を落としたい、落としてやりたいと頭の中から耳の奥へ誰かが囁く。身体だけは成長を続け、心を置き去りにしながら歪さと不安を抱えながらも友人と話を合わせるために下ネタで笑いをとったり普通の男子を演じていた。告白してきた校内の女子と付き合ってみた事もあった。友人の自宅に招かれた際、ポルノビデオを視聴したこともあったが、なにも感じなかった。
図書館で本を読み漁り、自分に似た症状を調べ尽くして、僕が見つけた答えは自分は『アクロトモフィリア』……切断された状態の四肢に興奮するという性的嗜好。切断すること自体には興奮を覚えず、四肢が完璧に揃っていない非対称な姿に興奮し、四肢を破壊しようとする行為も対象――他者へと向かう腕への破壊衝動、この衝動も自分に当てはまっていた。異常性癖と記されている。異常性癖とはつまり精神医学における病理的な〝疾患〟と診断される、性質上の偏りや癖である。……異常……疾患……その文字が目に焼きついた。いつから自分が可笑しくなっていたのかは正直なところハッキリとわからなかった。人に相談できる事ではなかった。相談したとしても精神科に通えとでも言われるだけだろう。実際、自分はそうした方がいいのかも知れない。でも、それまで十七年間、僕として生きてきた自分を否定されることがどうしようもなく恐ろしかったのだ。
その最中のこと。
高校卒業を間近に控えた高校三年の冬も終わりかけた頃、父から膵臓癌を患っていた事を告白されたのは……本人ですら医者に余命宣告を受けて初めて知ったことだったらしい。
「イサジ、本当は母さんがでて行ったと説明したが、それは嘘だ……」
病室のベッドで力なく伏せている父の声は乾いていた。
母がいなくなった事に対して父は多く語らなかったのでなんとなく察してはいたが、どういうことかと敢えて僕は聞いた。
「……私が殺した」
思わず耳を疑った。
死を目の前にした男が口にした言葉だ。
人を殺したと。自身の妻であり、僕の母を手に掛けたのだと。
母を殺した……と言う父のその言葉を理解することを僕の脳が拒絶する。もしかすると気が狂っているのかも知れない。
「どうして……」辛うじて僕はそんな言葉をだせた。
「父さんはな、もともと腕のない女性しか愛せなかった」
父は病室の天井を見つめたまま、虚な瞳で話す。
思考と体が分裂しているような感覚を感じながらも思考は活動を辞めない。
ああ、そうか、
父さんも僕と同じだったのか……
僕は父さんと同じだったのか……
父さんに似たから僕はこうなったのか……そんな考えが右から左へ流れて行く。
「母さんは……それを知ったうえで受け入れてくれたんだ。少なくともそう思っていたんだ。あの日の夜までは」
僕は母さんの気持ちがわかる。父は母に受け入れられていたと思っていたのだ、母から向けられる嫌悪に気がつかず食い違ったまま。
フッとあの日、僕が目撃した、目撃していた、はずだった光景が影灯籠のように脳のなかで再生される。
どうして思いだせなかったんだろう。
『―――いつになったら治るのよ! 私の気持ち考えたことある!』
母は父を容赦なく罵った。
『気持ち悪い―――』吐き捨てられた言葉が聴こえた……
次の瞬間、
母は首を掴まれていた。
大きな手が容赦なく力を込めて締め上げる。
彼女の首を絞めていたのは、罵声を浴びせられていた父だった。
男はそのままフローリングに押し倒した。ドアに背を向けていた父がどんな表情をしていたのかはわからない。もがき、抵抗し続ける女の顔や肌は赤を通り越して徐々に紫色へ変化して行く。その光景は蛇にカラダを締め上げられて飲み込まれて行くネズミみたいだと……幼い僕は思った。
「首を絞めて、暫くして、動かなくなったあと……書斎に運んだんだ。私は、あいつのうでを両方とも落としたんだ。……落とした腕は、冷蔵庫にしまって――」
あの夜、ドアの隙間から覗いていた僕はあの後どうしていたんだろう。いままで忘れていたんだ、こんな現実味のないことを受け入れられる訳がない。いまだって、父の話している内容が事実だとは信じられない。
「それから……私は私が成せるだけの技術を駆使してエンバーミングを施したんだ。服を着せて、あの部屋のなかでだけはこれまで道理、私達は夫婦でいられた――」
変な汗が流れた。いまの会話の流れから考えて、
ちょっと待て、まさか……。
「ねぇ、父さん……書斎に、いるの?……母さん……」
僕の言葉を無視して彼はぶつぶつと譫言を繰り返している。僕の震えた声は父には届かなかった。――あの頃には、もう手遅れだったのかも知れない。父はもう既に自分の世界から抜けだせなくなっていたのだろう。病室の窓から見えた葉の落ちた淋しい木の枝に積もっていた雪は、まだ解けていなかった。
二週間後に父は息を引き取った。訃報の知らせを聞いて病院に駆けつけた僕は病棟のスタッフから霊安室に案内された。亡骸を前にしていても悲しいとは思わなかった。父の顔には白い布が被されている。幼少期は見上げるほどだった身長も、改めて見るとそこまで大きくなく、手脚は枝のように細く痩せ衰えていた。被せられている布をとりはらい、確認した死顔は思っていた以上に安らかな表情だったのを覚えている。案外、人は生の呪縛から解放されるとき安心するものなのかも知れない。帰宅しようとした僕に霊安室まで案内してくれたスタッフから、父から預かっていたらしい鍵を渡された。
彼の葬儀は少ない親族のみで行われた。騒がしいことを好まない気質だから盛大に弔ってもらう事を望まないだろう。霊柩車に乗せられた父は火葬場へ向かう、火に焼かれ、残った骨の燃え滓を拾い集めて遺灰として骨壷に移された。父と二人で過ごした家は僕一人だけのものとなった。
葬儀が終わって直ぐ、ひと段落ついた僕は父の書斎を開けた。僕自身、書斎の鍵を見た事がなかったので、病棟のスタッフから渡された鍵が父の書斎の鍵だという結論に至ったのは直感としか言いようがない。
ガチャッと小さな金属音をたててドアが解除された。
部屋のなかを確かめる為にドアの向こう側へ足を運んだ。室内はカビ臭さと薬品の香りが漂っており、広さ自体は十畳くらいはあるだろう。家の外観から確かめて窓があるはずのそこは埋め立てられており、薄暗く外から差し込む光はなかった。電灯をつけると左の壁側に薬品棚とやけに似つかわしくない小型の冷蔵庫が並んでいることに気づいた。それらと向かい合う位置に机と椅子が置かれていた。さらにその側には怪しさしか感じない不恰好な長方形の大きな箱があった。黒い木製の箱は蓋と器の縁の凹凸がハッキリとしていて、よく見ると西洋の棺桶のように見えた。そこに指をかけて蓋を持ち上げると想像よりも軽く、容易く外す事ができた。
――そしてそれは姿を現した。
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