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【シャーロック・ホームズ】深夜の音楽家

1890年の厳冬期のことである。ロンドンは数日来の雪に覆われ、街路は凍てついていた。私が医院での仕事を終え、親友シャーロック・ホームズを訪ねたのは、そんなある夜のことだった。

ベーカー街221Bの居間では、暖炉が心地よい温もりを放っていた。ホームズは普段通り、深い肘掛け椅子に身を沈め、朝刊に目を通していた。私が入室すると、彼は新聞から顔を上げ、特徴的な鋭い目で私を見つめた。

「やあ、ワトソン。ちょうど良いところに来てくれた」

彼は新聞を手に取り、私に示した。「今朝の記事を見たかね? メイフェアの著名なバイオリニスト、殺害される―という見出しだ」

「いいえ、まだです」私は上着を脱ぎながら答えた。「今朝は手術が立て込んでいましてね」

「ヴィクター・クレイトン氏、45歳。昨夜、自宅の防音室で死体で発見された。彼の愛用していた名器のストラディバリウスは消失。これが新聞の要約だ」ホームズは立ち上がり、暖炉の前を行ったり来たりし始めた。これは彼が深い思考に没入する時の習慣的な動作だった。

「おや、これは確かに興味深い事件ですね」

「より興味深いのは、この事件の詳細だよ、ワトソン」ホームズは突然足を止め、私の方を向いた。「レストレード警部が今朝、私に相談を持ちかけてきた。クレイトン氏は毎晩、深夜に練習をする習慣があった。防音室は内側から施錠され、窓もない。そして発見時、部屋の中には彼の死体以外、血の付いた金属製の譜面台があっただけだった」

「完全な密室殺人というわけですか」

「ああ。だがそれだけではない」ホームズは眼を輝かせた。「家政婦の証言によれば、事件当夜、深夜0時過ぎまでバイオリンの音が聞こえていたという。しかし検死の結果、クレイトン氏の死亡推定時刻は午後10時前後とされている」

私は思わず身を乗り出した。「それは矛盾していますね」

「そう、極めて興味深い矛盾だ」ホームズはパイプに火を点けながら言った。「明日の朝一番で現場検証に向かう予定だ。もちろん、親愛なる友よ、君も同行してくれるだろう?」

「もちろんです」私は即座に答えた。外は雪が深々と降り始めていた。この時私は、これが私たちにとって最も奇妙な事件の一つとなることを、まだ知る由もなかった。

「では明朝9時だ。今夜は眠れそうにないな」ホームズは窓辺に立ち、バイオリンを手に取った。澄んだ音色が深夜のベーカー街に響き始める中、私は帰路についた。吹雪の中、バイオリンの音が次第に遠ざかっていった。

翌朝、約束通り9時に私たちはメイフェアのクレイトン邸に到着した。豪奢な石造りの邸宅は、朝の光を受けて荘厳な印象を与えていた。レストレード警部が玄関で私たちを出迎えた。

「来てくれて感謝する、ミスター・ホームズ」警部は私たちを屋敷の中へと案内しながら言った。「この事件は新聞でも大きく取り上げられており、早期解決を求められているんです」

「被害者の妻はどこに?」ホームズが尋ねた。

「エリザベス夫人は2階の寝室で休んでいます。家政婦のサラ・ウィリアムズが付き添っています」

私たちは広い廊下を通り、地下室へと続く階段を降りていった。そこには完全防音処理を施された部屋があった。扉は頑丈で、内側からの施錠が可能な特殊な造りになっている。

「被害者は毎晩ここで練習していたそうですね」ホームズは部屋の中を注意深く観察しながら言った。

「ええ。クレイトン氏は近隣への配慮から、この防音室を作らせたそうです」レストレードが答えた。

部屋の中には血痕の付いた譜面台が、証拠品として元の位置のまま置かれていた。ホームズはルーペを取り出し、床や壁を細かく調べ始めた。特に換気口の周辺を入念に観察していた。

「興味深い」突然、ホームズが呟いた。「ワトソン、この床を見たまえ」

私が指示された場所を見ると、微かに白い粉のようなものが散らばっていた。

「これは松脂ではないでしょうか」私は言った。「バイオリンの弦に塗るものです」

「その通り」ホームズは満足げに答えた。「だが、不自然な位置に落ちているとは思わないかね」

確かにその松脂は、通常バイオリニストが立つ位置からは少し離れた場所に散らばっていた。

この時、上階から物音が聞こえてきた。

「エリザベス夫人が目を覚ましたようです」レストレードが言った。「ホームズさん、話を聞いてみますか?」

「ああ、だがその前に」ホームズは立ち上がり、部屋の隅に置かれた楽譜棚に歩み寄った。「夫人に、ご主人が最近演奏していた曲について聞きたい。そして」彼は警部の方を向いた。「競合するバイオリニスト、ジェームズ・モリソンの所在を確認してもらいたい」

「モリソンですって?」レストレードは驚いた様子を見せた。「彼のことをどうやって?」

ホームズは楽譜の束を手に取りながら答えた。「この楽譜の書き込みからね。クレイトン氏は先週の演奏会でバッハのシャコンヌを演奏する予定だった。同じ曲を演奏予定だった別のバイオリニストがいた。その演奏会のプログラムがここにある」

私たちが2階へ向かおうとした時、玄関のドアベルが鳴った。家政婦のサラが出迎えると、そこには一人の男性が立っていた。

「ジェームズ・モリソンです」その男性は自己紹介した。「クレイトンさんの訃報を聞いて参りました」

ホームズの目が鋭く光った。事件は新たな展開を見せ始めていた。

「お聞きしたいことがあります、モリソンさん」応接室でホームズは早速尋問を始めた。「昨日の夜、あなたはどこにいました?」

「私ですか?」モリソンは椅子に深く腰を下ろしながら答えた。「セント・ジェームズ・ホールでリハーサルをしていました。来週の演奏会の準備です。午後6時から11時まで。ホールのスタッフが証人になれますよ」

「バッハのシャコンヌを演奏予定だそうですね」

モリソンの表情が微かに強張った。「ええ、その通りです。クレイトンさんも同じ曲を演奏する予定でした」

「奇遇ですね」ホームズは穏やかな口調で言った。「同じ週に、同じ曲を」

「偶然です。私はその曲を1年前から準備していました」

この時、エリザベス夫人が応接室に入ってきた。喪服姿の彼女は疲れた様子だったが、気品のある美しさを湛えていた。

「モリソンさん...」夫人は驚いた様子を見せた。「まさかあなたが...」

「お悔やみに参りました、奥様」モリソンは立ち上がって深々と頭を下げた。

ホームズは二人の様子を鋭く観察していた。「夫人、ご主人は昨夜、どの時間まで練習されていましたか?」

「私には分かりません」エリザベス夫人は答えた。「夫は毎晩遅くまで練習していて、私は寝室で眠っていました。防音室からは音が漏れてきませんから」

「家政婦のサラさんは、深夜0時過ぎまでバイオリンの音が聞こえたと証言していますが」

「それは...」夫人は言葉を詰まらせた。「私には説明できません」

この時、レストレード警部が部屋に入ってきた。「ホームズさん、新しい情報です。クレイトン氏の防音室の鍵が見つかりました。被害者のポケットからではありません。庭の植え込みの中からです」

ホームズは突然立ち上がった。その目には、何かを悟った色が浮かんでいた。

「レストレード警部、あと一つ確認してほしいことがある」ホームズは手帳に何かを書き付けながら言った。「セント・ジェームズ・ホールに電報を打ってくれたまえ。昨夜のリハーサルの件でね」

それから私たちはベーカー街に戻った。ホームズは黙考を続け、私もその思考を邪魔しないようにしていた。夜になり、ホームズが突然口を開いた。

「ワトソン、明日の朝9時に防音室に来てくれ。今夜、とても重要な実験をする必要がある」

「分かりました」私は答えた。「でも実験とは?」

「今は言えない。だが明日、全てが明らかになる」ホームズは立ち上がり、コートを手に取った。「さあ、準備をしなければ」

その夜、私は好奇心に満ちた期待感を抱きながら帰宅した。翌朝、衝撃的な真相が明かされることになるとは、まだ知る由もなかった。

翌朝、私は約束通り9時に防音室に到着した。そこにはすでにホームズ、レストレード警部、そしてエリザベス夫人とジェームズ・モリソンの姿があった。

「おや、モリソンさんも?」私は驚いて声をかけた。

「私が来るように依頼したのだ」ホームズが答えた。「昨夜の実験の結果を見てもらうためにね」

部屋の中には蓄音機が置かれていた。ホームズはそれを指さしながら話し始めた。

「この事件の核心は、深夜まで聞こえていたというバイオリンの音にある。クレイトン氏は午後10時には死亡していたにもかかわらず、なぜ0時過ぎまで演奏が続いていたのか」

ホームズは蓄音機のレコードを取り出した。「これは昨夜、私が録音したものだ。バッハのシャコンヌ。そしてこれを防音室で再生すると...」

彼がレコードを再生すると、部屋に美しいバイオリンの音が響き渡った。

「驚くべき音質の良さだ。これなら生演奏と見紛うほどだろう」

エリザベス夫人の顔が蒼白になった。

「そう、犯人は蓄音機を使って、クレイトン氏が練習しているように見せかけた。だが、なぜ?」ホームズは部屋を見回した。「それは、アリバイ作りのためだ」

「アリバイ?」レストレード警部が聞き返した。

「その通り。レストレード警部、セント・ジェームズ・ホールからの返答は?」

「ええ、昨夜のリハーサルについてですが...モリソンさんは8時には帰っていたそうです」

モリソンは椅子から立ち上がろうとしたが、警官たちにすぐさま取り押さえられた。

「完璧な計画だと思っていたでしょう」ホームズは続けた。「クレイトン氏を殺害した後、蓄音機をセットして深夜までのアリバイを作る。そして自分はセント・ジェームズ・ホールでリハーサルをしていたと主張する」

「だが、どうやって防音室に?」私は尋ねた。

「庭で見つかった鍵です」レストレード警部が答えた。「モリソンさんは以前、この家に出入りしていたそうですね」

「ええ」エリザベス夫人が震える声で言った。「夫とデュオを組んでいた時期がありました」

「そして最後の証拠が、この松脂の跡」ホームズは床を指さした。「これは演奏者の定位置からずれている。なぜなら、蓄音機を置くためにその位置を変える必要があったからだ」

「観客の前で演奏できる機会を奪われた」ホームズはモリソンに向かって言った。「同じ曲を演奏することになり、自分の方が後になってしまった。プライドが許さなかった。違いますか?」

モリソンは暫く沈黙した後、ゆっくりと頭を下げた。

「完璧な計画だと思った。あの高慢な男を殺し、私がシャコンヌを演奏する。誰も気付かないはずだった...」

「音楽家としての執念が、逆に罠となりましたな」ホームズは静かに言った。「本物の演奏は、機械では決して再現できない何かを持っているものです」

事件は解決し、モリソンは逮捕された。帰路につく馬車の中で、私はホームズに尋ねた。

「最初から気付いていたのですか?」

「いや」ホームズはパイプに火を点けながら答えた。「だが、音楽を愛するがゆえの犯罪には、必ず痕跡が残るものだ。今夜は私の演奏を聴きに来ないか、ワトソン?バッハのシャコンヌを弾こうと思うのだが」

こうして奇妙な事件は幕を閉じた。その夜、ベーカー街にはホームズの奏でる温かいバイオリンの音色が響いていた。

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