この世の犬々たちは、かくも偉大なり…
今日も地球の上を、愛らしく偉大な犬が飛んだり跳ねたり駆け回ったり眠ったり伏せたりお手したりおかわりしたりお座りしているのを想像すると、とても柔らかな気持ちになるだろう。
黒曜石のような、慈愛に満ちた優しい瞳。黒と白の豊かな毛を、秋風になびかせる。大きな体を、可愛らしく小さく揺らしながら、あちこちの匂いを感じ取っているようだ。鼻先を、道端の草に近づける。その横顔は、暖炉横のロッキングチェアに腰かける立派な学者先生のように利発で穏やか。
今日私が出会ったわんこ氏は、このような様相であった。おそらくボーダーのコリー氏であろう。
犬というのはなんと愛らしいのだろう。小さくても大きくても、毛が長くても短くても、短足だろうが胴長だろうが、すべての犬は皆等しく、立派で健気で可愛らしい。
犬を散歩させている人を見ると、今日もありがとう、とついお礼を言いたくなる。
私は、犬に出会うと、ついついそちらの方を見つめてしまう。
けれど、他人様の犬を凝視することは、失礼に当たらないだろうか。
小さいころから、「他のひとをじろじろ見ないの!」と言われてきた身としては、ちょっとばかり気まずいのである。その範囲は「人」にとどまらず、その人が所有するものにまで及ぶ。
派手な外車やスポーツカーが走っていると、田舎っ子だった私はつい嬉しくなって指さしていたのだが、その時も「じろじろ見ない!指ささない!」と徹底的に注意喚起されてきたのである。
私は結構他の人が気になる性質で、綺麗な人をみるとつい目で追いかけてしまうのである…。一昨日は電車で、オレンジ色の素敵なコートをお召しになったマダムを目で追ってしまった。スタンドカラーで、膝丈まですとんと落ちるシンプルなデザインながら、黒のおそらく革素材で首元と前身頃にラインが描かれていて、それが都会的なアクセントとなりとてもお似合いだった。それから全くの赤の他人の会話も好きで、今日も一限へ向かうバスの中、寝ようと思っていたけれど、結局盗み聞きをしてしまった。ごめんなさい。懺悔。
話は戻って、わんこ氏である。犬には当然飼い主がいて、その飼い主自身が散歩をしていることがほとんどだろう。だから、人の車をじろじろ見てはいけないように、犬を凝視するのも、あまり良い行動とは言えないかもしれない。
しかし、こう考えてみたらどうだろうか。犬にも感情があり理性がある。そして、私が見つめるのは犬だけである。もし犬が、私に見られることが嫌ではない、と思えば、それは無問題なのではないか。つまり、犬凝視問題は、「私ー犬」間の問題であり、「私ー飼い主(犬)」間の問題ではない、ということである。
だが、わんこ氏は、人間の言葉をしゃべることが叶わないし、人間も、わんこ氏の感情を読み取るすべがない、という課題が発生する。もちろんこの場合、悪いのはこれだけの科学技術を持ちながら、わんこ氏の言葉を理解する術のない人間側であり、わんこ氏側に過失はない、ということを、弁解しておく。念のため。
…今調べてみたら、犬の鳴き声を翻訳するアプリなるものが存在することが判明した。人間も、頑張ってはいたようだ。しかし、今日お会いしたボーダーのコリー氏は、もとは牧羊犬であり、非常に賢犬(かしこいぬ)であることが知られている。先ほどお会いしたコリー氏も、執拗に吠えたりせず、実に威風堂々たる身のこなし、静かにお散歩を楽しんでおられた。つまり、翻訳アプリは使えないのである。残念。
議論は振り出しに戻る。結局、犬凝視問題は解決の目途が見えない。
人間がどう思っていようが、わんこ氏は、そんなものには目もくれず、ひたすらに飼い主を愛し、散歩を愛する。それでよいではないか、というのが、私の今出せる結論である。
つまり、所詮人間がいくら議論を重ねても、わんこ氏の足元にも及ばないのだ。ならば、小難しいことは忘れよう。そして、素晴らしい犬々を眺めようじゃないか…。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?