サピエンス全史から考えるメリトクラシー批判



1.はじめに

 
 近代以降、西欧社会ではそれまでの生まれた瞬間から身分が決まっているおり、人口の上位2%の貴族や王族が働かずに’’有閑’’を謳歌しつつ領土を所有し、その領土で残りの98%の市民が2%の人間のために働いていた。
このような身分制および封建制から開放されるべく「自由」の必要性が叫ばれたのが市民革命であり、革命によって付与された「人権」「自由」が今日の我々にも付与されている基本的人権の源泉である。

J.S.ミルの『自由論』をはじめとして様々な形で自由とは何かとその必要性が論じられてきた。
『自由論』では個性の尊重によって個人の能力が向上し、それによって社会全体の発展に繋がるという論理が説かれていた。今でこそ自明のことのように聞こえるこの論理は、ミルが生きた当時の時代にとっては当たり前ではなかった。
当時の西欧社会ではなお封建制の名残りが強く尾を引いており、生まれた時の身分が小作農であれば死ぬまで小作農であったし、身分を超えた結婚などありえなかった。だからこそ、当時ミルが自由論で論じた自由とは当時からしてみれば目新しく革新的であった。
これが現在でも信じられている価値観ではあることは疑いようがなく、能力の発展と社会全体の発展とは理念の中で分かち難く結びついている。
というより、これは最近ようやく日本でも浸透してきた論理である。
年功序列や終身雇用といった護送船団方式の名残りが解体され始め、自分の「スキル」を個人それぞれが磨くことで集団としてより、個の力が重視され始めて久しい。スキルを持っていれば同じ会社に居続けることなく、転職すればいいという考えが東京を中心として浸透している。東京の電車に乗ればほぼ必ず転職の広告を見かける。
ツイッターでは「会社がブラックならすぐ転職すればいいよね、逃げることも大事だよ」系の論調が10年前ぐらいから星の数ほどバズっている光景を見かける。筆者は2000年生まれの23歳で、ツイッターは12歳、中1の頃から見ているが、幾度となくこの「転職すればいい」論調の万バズツイートを目にしては、「はいはいまたこれね」と思いながら眺めるというZ世代らしい冷笑的、もっと言うと構造主義に侵された態度を取ってきた。
そして、「転職すればいい」論を論じる際に欠かせない要素は、年功序列や終身雇用のような能力主義を阻害する昭和くさいものへの徹底的な批判である。実際、年功序列や終身雇用などという制度はデキる人からしたら完全に無駄である。個人の能力の高さよりも上司にどれだけゴマを擦れるかによって出世が決まるのだから、これほど馬鹿馬鹿しい話はない。

では、年功序列や終身雇用のような古臭い制度が全廃され、個人の能力の高さが全ての社会になったら、いわゆるメリトクラシーが全盛を迎えた社会は果たして発展していくのだろうか。

改善するために護送船団が解体され、非正規雇用が増え、
冒頭でミルの自由論では個性の尊重によって個人の能力が向上し、それによって社会全体の発展に繋がる と書いたが、
しかし、昨今のメリトクラシー(能力主義)批判のように二項の関係が相互発展に繋がっていないと個人的に確信できるのが今日の社会である。
本稿では、上記のような

つまり、個人の能力がいくら向上してもそれが社会全体の発展に結びついていないということである。なぜそのように確信できるかというと、詳しくは後述するが、自由という概念は人類史において極めて特異であるからだ。
このへんは4章でサピエンス全史を援用して7万年前の人類史まで遡って振り返って説明していく。たぶん、4章から読んでもらった方がこの後書いている話が理解しやすいかもしれない。

本稿では、前述した
「個の発展がみんなの発展につながっていない社会」=メリトクラシー批判を行う上で、個人からではなく国家から見た「豊かさ」と「正しさ」という二項対立の指標を提示する。そして本来個人から見た「豊かさ」は国家から見るとそれは通説的な「豊かさ」とは異なることを人類史に絡めて論じ、個人と社会の関係を精査する。


2. 豊かさと正しさの倒錯

 近代以降社会はめざましい科学技術の発達とともに、様々な人間の活動が機械によって効率化され、少ない労力でより多くのモノを生産できるようになった。高度経済成長期の三種の神器及び3Cのようにイノベーションによって、人間の生活に余暇が生まれ生活が豊かになると謳われてきたはずであった。例えばたった1世紀前までの日本で行われていた洗濯は井戸水を使って手を使ってこするという膨大な労力のかかる作業であったが、今では洗濯機に放り込んでボタンを1回押すだけで完了するようになった。1時間かかる作業がたったの数秒で終わるようになった。
ではここで生まれた1時間の短縮によって人間の余暇は増えたかというと、
むしろ日々に忙殺され、労働時間は変わらないものの、今日に至るまで名目賃金はほとんど上昇せず、物価上昇分を差し引いた実質賃金は1997年を100として2016年には89.7に低下しており(OECD調査[2])、国民全体として豊かになったとは言い難い。

技術革新によって人間はあらゆる作業を機械に任せることで作業から解放されたわけだが、これによって余暇は生まれることがなく、むしろ忙しく貧しくなっている倒錯が起きている。
この倒錯の中で、当初、イノベーションが「余暇」を生み出すと謳われてきたが、その余暇は何に変換されたかというとさらなる競争である。本来、
資本主義社会でこれは自由競争と呼ばれ更なる発展を生む原動力であるはずであるが、発展が生むものは豊かさではなく次の競争であった。カール・ポランニー等の論者が指摘では、人間は、市場において評価されず貨幣に換算することのできない出産や育児などの行為を無しにして存続することはできず、その点において経済とは非経済的なものが前提として成り立っている。

この前提は多くの場合で見過ごされている。市場原理において非経済的なものは評価されず、例えばボランティア活動、出産、育児、インフラ整備等の活動を、社会を存続させるための必要不可欠な生産活動であるが、それらはポランニーが言うような「非経済的な活動」であり、これらは競争原理においては見過ごされることが多い。
しかし、これらの非経済的な活動なしに経済活動は成立しない。この意味で非経済的な活動は社会集団全体の欲望を満たすことの根底を支える、集団の豊かさの縁の下の力もちであると言える。

一方で市場原理の中で行われている競争は個人的な欲望を満たすことが目的である。競争というのは具体的には偏差値のための受験戦争、年収のための就職活動、競合企業による顧客の取り合い等である。
「偏差値」や「IQ」「仕事ができる」といった指標は全てメリトクラシー(能力主義)を前提としており、
親は子により偏差値の高い学校に行かせ、より年収の高い職業に就かせ、その子が更に自分の子により偏差値の高い学校に行かせ、より年収の高い職業に就かせようとするが、これは集団の豊かさとは相反するどころか、むしろ集団の中で限られたパイを奪い合っているに過ぎない。このようなパイの分配方法に正当性を持たせるための競争、そのために勉強やスポーツ等での能力向上に努める一方で、出産や育児のような社会を存続させるための集団のための生産および保育士、介護士、学校教諭やサービス業など集団の豊かさを高める非経済的な職業従事者はパイの分配競争から離れている点で十分なパイが与えられず、集団のために労力を割くことで能力向上(自己実現)の機会を損失している。個の能力向上が向かうベクトルの矛先が、残されたパイの奪い合いにしか使われず、本来イノベーションによって生まれるはずであった「余暇」は更なる他人のパイを奪うことに代替される。

ここで、多くのパイを得た競争勝者が通説的な「豊か」という形容詞に集約される。逆に、上述した論理で集団の豊かさを支え、生産し続けてパイを奪われた者は「正しいが故に貧しい」と言える。例えば、出産は人類が存続する上で欠いてはならない限りなく「正しい」行為であると言えるが、それに伴って会社で産休を取ることは会社や市場にとってはマイナスとなる。


3.正しさの源泉は何か

 では現代では、正しさが蔑ろにされており豊かさだけが先行しているかというと、むしろ逆であり、「ポリコレ」や「女性の権利」等の言葉に象徴されるように、正しさは理念として重視されている。

ただし、正しさが重視されているのは、過去に日本であれば高度経済成長期での護送船団方式のように通説的な豊かさの土台を固めたことで、その上に立っていられるからである。

では、「正しさ」とは何に由来しているのだろうか。

ホッブズは万人の万人に対する闘争状態では自己保存の欲求および私有財産を最大化させることができないため、人間にそれらを一旦断念させ社会契約に基づいた国家に自然権の一部を委ね理念に服従することで、結果的に自己保存の欲求および私有財産を最大化が確実になると考えた。正しさがこの功利主義的な社会契約を源泉としているのであれば、正しさは豊かさを求めるための手段になる。

性善説・性悪説といった何を善で何を悪とするかの判断基準もこの自己保存および私有財産を最大化のような自然権の最大行使のために生まれたにすぎず、善悪の判断基準そのものに普遍的な意味や人間的な価値があったわけではない。つまり、正しさそれ自体に倫理的な価値はなく、個々が利潤を追い求める際に何が正しくて何が間違っているという概念を制定した方が市場原理にとって都合が良かったということになる。

これを確認した上で前章の論理に立ち返って考えてみると、出産やインフラなどの集団の豊かさのみを志向していけば個人の市場原理に基づく競争という正しさをなくしても余暇のある豊かな生活を全国民が送れるように思えるが、それでは個人の自由が制限されてしまい、社会は個人にとって加害なものになり得る。

この文脈でJ.S.ミルの『自由論』を振り返ると、彼の自由論とは、封建制によって担保されていた従来の社会制度による集団の豊かさ(豊かさ)が全盛を迎えていた近世のヨーロッパにおいて、それに対抗すべく現代的な個人の自由(正しさ)を求めた、当時においては革新的な著書であり、彼の時代において個人の自由とは、集団の豊かさ(封建制)に歯止めをかける抑止力として存在していたと捉えることができる。日本では護送船団方式によって築いた豊かさの土台があるからこそ正しさが語れる、と前述したが、確かにそうではあるが、そもそも護送船団および高度経済成長とは集団の豊かさに抑止力を加えた正しさ(個人の自由)に由来していると捉えることができ、この点でもう一度、豊かさと正しさは倒錯する。
(一度目の倒錯はイノベーションの促進によって生活が豊かに楽になると思われてきたが、実際にはならなかったこと。二度目は、高度成長は個人の側から見ると豊かさの底上げによって実現したように思われるが、社会の側から見ると正しさによって実現されているという倒錯である。)

この論理を飛躍すると、集団の豊かさとは個人の自由を制限し得るナショナリズムやそれに伴う戦争をも内包する。集団が豊かになるために赤紙を配布したり治安維持法のように個人よりも集団にとって都合の良い法律を制定したりして、個人の自由を規制する意味において豊かさの究極系は戦争および戦争に導く軍国主義的政治形態とも言える。戦争に限らず、宗教団体や労働組合、国家もまた正しさというよりは豊かさのカテゴリーに分類することができる。

故に個人の自由(正しさ)に由来する受験戦争やスポーツを含む市場競争とは本来の集団の豊かさに公平を求めた抑止力として機能しており、今日の新自由主義やトリクルダウンは経済を発展させるおろか、更なる歯止めをかけているというのが私の断片的な結論である。この問題の根深い点は、正しさ(個人の自由)と倒錯されている意味においての豊かさ(より大きなパイの分配を求めること)が結びついているのが現在の市場原理であるので、この関係がイコールとして認識されてしまっていることにある。この豊かさの履き違いについて、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』[4]では次のような指摘がなされている。

人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。(中略)記号や観念の受け取りには限界がない。だから、記号や観念を対象とした消費という行動は、けっして終わらない。

[4] 國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補版』新潮文庫、2022年


イノベーションはさらなる競争を生み出すだけでゆとりを生み出すことはないことと同様に、消費行動にも終わりはなく、得られた快楽および満足は次の消費を生み出す。人はせわしなく意味を追いかけることによって自分で自分から余暇を感じないように無意識のうちに仕向けているのが今日の社会であると言える。



4.サピエンスから豊かさと正しさを考える


 そもそも私がこの正しさと豊かさという二項対立を考えるようになったきっかけの一つは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』[5]の影響によるものが大きく、本章では著書を援用した上で前述した豊かさと正しさの論理を補強する。

著書によれば、我々の祖先であるホモ・サピエンスという人種は元来、脳の容量や運動能力は他のネアンダール人などの他の種と比べて劣っており、サバンナの中でもその食物連鎖におけるヒエラルキーは低かった。それが、7万年前に起きた認知革命と呼ばれる「嘘(フィクション)を信じる力」を獲得したことを皮切りにめざましい発展を遂げ、それによって他の種を淘汰し、異次元のスピードで文明を発展させた。この認知革命によって生存競争に勝利したというのはどういうことかと言うと、サピエンス以外の生物の場合遺伝子による行動の変化は非常に遅く、何世代もの個体を経て少しずつ変化するのが遺伝子による変化の定石であるが、フィクションという遺伝子の外部にあるものの影響を受けやすくなったことで集団レベルでの行動パターンの変化が非常に早くなり、トライアル&エラーの試行回数が他の種と比べ物にならないほどに増加したことによって膨大な数の失敗を繰り返す中で得られた革新的な施策がまたフィクションとして集団全体に共有されることで遺伝子(本能)の部分は変わらずとも集団として他の種を圧倒した。

やがてサピエンスは他種にほとんど外敵がいなくなりサピエンス同士での争いを行うようになるが、その際に、生き残るのは本能的な個人の強さではなく、強い社会制度(フィクション)を備えた集団である。今日まで根付いている「結婚」という社会制度はその際たる例であり、本能的に好意を抱いた女性ではなく不自然に全員を番いにし社会に組み込む方が、個人としては不自由であっても集団として強くなった、という論理である。フィクションはその後、神の存在および宗教共同体のような様々な形に媒介することになる。

問題は7万年前のフィクションを信じるようになった認知革命から現在まで我々サピエンスの遺伝子(本能)的な変化はわずかなものであり、本能の大部分は自然のままであるが、社会制度は現代まで凄まじい勢いで発展したことにある。つまり、内部(本能)と外部(社会制度)の乖離が生じているのが現在の社会である。

ここで豊かさと正しさの相反に立ち返ると、豊かさとはサピエンスをここまで発展させたフィクションを信じるという認知、外部の社会制度であり、正しさとは内部の本能に該当する。このサピエンスの歴史から自由という「内部」を考えた際、自由が重視される社会とは本能的な幸福の重視に繋がっていると言えるが、それは外部の発展に置き去りになった内部の自然への回帰を求める行為と捉えることができる。それは自由に限らず、個人としての正しさを求める動きはLGBTQやメリトクラシー(能力主義)のように昨今活発になっている。

今一度考えておきたいのは、基本的人権が全国民に保障され、出版や思想その他一切の自由が担保されている現在の社会の特異性である。現代に生きる我々は他人の目を気にすることなく社会主義思想の出版物を読み、天皇陛下の悪口をインターネットに書き込むことができる。元来、古くからの社会の多くは集団が豊かになるために個人は集団の加害性に組み込まれ、自由に本を読むことも、自由に職業選択することもできなかった。しかしそれは当時の人々にしてみれば至極普遍的なことで、制限を受けていることに疑いを感じる自意識のようなものは今ほどなかったであろう。なぜなら、サピエンスは7万年前から集団の豊かさによって繁栄した生物であり、フィクションという虚構を信じることができるからである。

はじめにで論じた、個人の能力の発展と社会の発展が結びついていない社会とは、このサピエンスの歴史を鑑みると、個人の能力の発展(正しさ、本能、内部)が豊かさ(フィクション、社会制度、外部)の抑止力として機能していることを明確に示している。前章で市場競争を豊かさではなく正しさの側に置いたのもこのためで、市場競争というメリトクラシーのような競争の勝者を目指して個体としての優秀さを重視する本能的な正しさよりも、ニーチェが群衆を「畜群」と称したように、不自然な社会制度からなる集団のポピュリズム的なエッセンスによって生き残ったのがサピエンスである。

では、メリトクラシーのような競争が豊かさの抑止力として機能しているのであれば、これが不要であるかというと、そうではない。むしろ必要不可欠である。第二次世界大戦のナチスドイツはこの豊かさの推進がフィクションとして国民全体に広がり、それがナショナリズムの高揚を促した結果豊かさの側だけが一人歩きして、正しさの抑止が機能不全になったことで暴走した。日本においても日高六郎が『戦後思想を考える[6]』で公状況と私状況、滅私奉公と滅公奉私という二項対立で当時の日本社会を論じたように、私(正しさ)が公(豊かさ)に組み込まれ、一億総玉砕というフィクションを信じてナショナリズムを高揚させたことによって戦争へと向かった。

以上の例で挙げたように豊かさの暴走に正しさが抑止をかけることは当時の社会では叶わなかった訳であるが、現在においてはその抑止が機能し過ぎているため、社会全体が膠着状態にあるというのが本稿のマクロ的な論理である。



5.競争の多様化

 これまで、競争をメリトクラシーのような「上への競争」を前提として論じてきたが、昨今では低所得者、失業者、高齢者、障害者などの社会的弱者が公的扶助や社会福祉の提供をめぐって弱者性を競う「下への競争」も存在しており、これによりますます豊かさが見えにくくなる問題が生じている。伊東昌亮『「弱さ」を競い合う社会 「曖昧な弱者」存在認識を[7]』では弱者性の競争について、まず弱者の定義を2つに分けており、一つは経済的な援助を必要とする弱者を、もう一方では性的マイノリティや人種差別など文化的な要因によって弱者を規定している。そして、これらの弱者が「自分の方がより苦しい」と弱者性

を競うことが下への競争であるが、この記事では、上記のような明白な弱者に加えてかつての中間層から溢れた新しい弱者が出現しているとし、そして次のように言及している。


 ところが近年、そうした枠の中に収まりきらない、いわば「曖昧な弱者」が増えてきている。社会保障制度の対象となるほどの困窮者ではなく、人権政策の対象となるような被差別者でもないが、それぞれの困難さを抱え、いわゆる社会的排除の状態に置かれているような人々だ。そうした動きの背景に、近年の日本社会の変化がある。とくに2000年代以降、新自由主義的な諸政策が推し進められていくなかで、まず「分配」が様変わりしていった。縮小により、十分な分配にあずかれなくなった人々が大量発生した。しかし、本来これは福祉国家の提供する福祉機能による救済対象ではない。いいかえれば「分配」における「明白な弱者」ではない。そのため「公助」を与えられることはなく、「自助」を勧められる。同時に「共助」という曖昧な領域に、「曖昧な弱者」として取り残されることとなった。

伊東昌亮『「弱さ」を競い合う社会 「曖昧な弱者」存在認識を[7]』日本経済新聞(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO78040270Z20C24A1KE8000/)2023/1/30

 

ここで論じられている「曖昧な弱者」はかつてのマジョリティである中間層であった。豊かさと正しさの論理から考えると、マジョリティは大衆であるので豊かさに位置する。そしてかつてニーチェが畜群と称したように、大衆の中では同質性が重視され、差が嫌悪される。メリトクラシーのような上を目指す競争においては高所得者層の「上の競争」においては脱税がたびたび弾圧され、弱者性を競う「下の競争」においては、生活保護の不正受給などがマジョリティによって厳しく弾圧される。なぜ弾圧するのかというと、自分たち中間層だけが何の公助にも与れずに、資本家の利潤のために毎日労働しているように感じるからである。そして、2000年代からの社会構造の変化に応じて徐々に没落していった中産階級らは、「自分にも救済を」下への競争に参加し、新たな弱者層が生まれる。

しかし、豊かさと正しさの論理から考えると、上への競争下への競争はどちらも正しさの側にあって、決して豊かさの側に位置していない。競争原理とは正しさを根拠に行われるからである。弱者が競争の不公平さを訴えることは競争そのものの否定になっておらず、むしろ競争の正当性を強めるものなり、弱者性への配慮の要求は競争の勝者の立ち位置を脅かすものではなくむしろ競争の「差を肯定する作用」を補強する逆説的な現象が生じる。ここに冒頭で述べた豊かさの見えにくさが隠れている。

 

6.まとめ

本稿では、豊かさと正しさの二項対立によって社会での競争原理を見直し、現在の競争が向かう先が豊かになるための抑止力として働いているという見方を提示し、その上で現在行われている競争が上へのベクトルだけでなく下にも広がっていることで、その構図自体が競争原理の正当性を強めていることを指摘した。「豊かさ」と「正しさ」という指標を用いたのは、ひとえにサピエンス全史による影響が最も大きい。人類が種として存続する前提を見直した際、そこには現在の市場原理の中では通説となっているも抽象的な何かが根本的に誤っていると感じ、これを日高六郎の公状況と私状況という二項対立を参考に「豊かさ」と「正しさ」という指標で説明した。

本稿の論理では自由民主主義の営みはサピエンスの持つ原初的な本能(正しさ)をもとに行われているとしており、ではこれが過ちの政治体系であるかと言われるとそうではなく、自由民主主義は豊かさに対する抑止力として働くというのがこの二項対立における見方である。しかし、二項対立に凝り固まることはデリダが指摘したように大きな問題点を見落としてしまう。世の中の問題とは二項対立ではなく、無数の因子が無数のベクトルで双方向的に絡み合っているからである。本稿のあくまで現代での偏見を解きほぐすための一つの方法論に過ぎないことに留意したい。



[1] J・S・ミル(関口正司訳)『自由論』(岩波文庫、2020年)

[2] OECD Data Net national income https://data.oecd.org/natincome/net-national-income.htm

[3] 一度目の倒錯はイノベーションの促進によって生活が豊かに楽になると思われてきたが、実際にはならなかったこと。二度目は、高度成長は個人の側から見ると豊かさの底上げによって実現したように思われるが、社会の側から見ると正しさによって実現されているという倒錯である。

[4] 國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補版』新潮文庫、2022年

[5] ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田祐介訳『サピエンス全史』河出書房新社、2016年

[6] 日高六郎『戦後思想を考える』岩波書店、1980年


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