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つらつら喋る(宮沢賢治 告別)
こんばんは、新年ですねえ。今日はつらつら喋りたいと思います。
上の画像は僕の好きなドイツのロマン派、フリードリヒの絵です。なんかパソコンにありました。彼の絵はいいですよねえ。題目は「The stages of life」、希望が見えてとても悲劇的で孤独ですよねえ。知ったようなこと言ってますよねえ。ええ。でも2025年はこんな感じでいきますよお、いいですよねえ。ええ、そうですよねえ。
今見てる映画は「ブレード・ランナー2049」、2049の方ですよ、ライアン・ゴズリング(中黒は村上春樹の影響)(こないだ久しぶりにlalaland見た、記事にしてもうた)が出てる方ね。ちなみにまだ見終わってないんですよ。どうも僕はブレード・ランナー見てると眠たくなるんですよねぇ、いや退屈なんかではないんです。どちらかというと、母性と包容力のある姉気質な彼女に包まれている時の眠気に近いです(ただのレトリックかもしれませんがねえ)。
僕はね、ディストピアものがすごく好きなんですよ、ほら、自分たちの未来を考えた時にさ、暗いものを想像するって、なんだか面白くないですか?進化は必ずしも
明るいものとは限らないという陰鬱で鬱蒼とした諦観。でこういうイメージがほんと小雨と東京の繁華街ってピッタリ一致してるのね僕の想像力の中でも。だからブレード・ランナー初めて見た時は、さすがリドリー・スコットやなあなんて思ったりしてねえ(ちなみに私はあまりリドリー・スコットの作品が好きではない。グラディエーターといい、エイリアンといい、なんだか完成されすぎている感じが好かんのだ。故に、そんなにdigることができていない。しかしレクター博士は好きなので、ハンニバルは近いうちに見ようと思っている)。歌舞伎町のイメージが離れなかったと本人は言っていますが、どうなんでしょう。
さて、ここからが本題です。
今日ね、村上春樹の「騎士団長殺し」読んでたんですよ、もうこれで彼の長編は全部読み終わってしまうんでね(といいつつ、壁と不確かな…は読んでいない。僕は世界の終わりとハードボイルド…があまり好きではなく、かつ私の賢明な友達にもあまり面白くないと忠告のようなものをされたので、ほぼ読む気がない)、すっごくゆっくり読んでいるんです。だからこの際書きたいことがあったらその度に書いてしまおうと思ってね、今に至るわけです。
第一部、顕れるイデア編91ページを読んでいた時にね、僕がものすごく最近影響を受けている宮沢賢治の詩が頭に思い浮かんでね。「告別」というやつなんですがね。以下、青空文庫より。
おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ
(https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47027_37961.html)
まだ騎士団長殺し読み終わってねえから、あれなんだけどもよお〜、とにかくこの詩を思い出したわけです。
皆さんは夢かなんかありますかねえ、あるいはなんだか天命のように思われて仕方のない使命感のようなもの。
皆さんはどれだけ貧乏を知っているでしょう?貧乏によって自分が損なわれているなと感じたことはあるでしょうか?
生活はどうでしょうか?社会のために奉仕している自分と、純粋で透明な自分をどうやって折衷させていますか?妥協点をどこに見出しているでしょうか。
子供の(若者の)健やかで伸びのある(ジャックと豆の木の、それのような)想像力、時にはそれが、練れた技術者のそれを上回るようなあの感動。
我田に水を引くじゃないですけどね、つまり僕がリドリー・スコットをそんなに好きでいられない理由ってそこにあるんではないかな。うーん、ほんとテキトーな論理だけど(この”テキトー”という字面が私は大変に好みである。見るからに怠惰と放漫に満ちている)。
切っても切り離せないこの生活という足枷をさあ、さっさと切り離して自由になりたいよねえ。できるだけ誰とも関わらず、生活と社会と人と自分を、断絶させたいという欲求。
一方でそうした絶対的な孤独の辛さ。無力感の怖さ。一人でいること、閉じこもることではないんだなあ、やっぱり人と一緒にいること、生活の中で自身の能力を磨くことがいいんじゃないかなあ。たまには”山から降りてみること”。
良い詩だよほんとに。つくづく思いますねえ。しみますねえ、五臓六腑に。
俺は、一人でいることってやっぱり耐え難いものがあるので、生活でも恋でもなんでも良いから、関わり続けたほうがいいと思う。そこにはもちろんプライドとの葛藤や、大衆への嫌気などがつきまとうんだけどね。誰かに強烈に認められたいけど、誰にも理解されたくないみたいな矛盾もある。andymoriの「誰にも見つけられない星になれたら」。
関わりといえば、小津安二郎の「長屋紳士録」、この前見たけどさ。うん、まさにああいうのだよ。厄介な子供とも、関わり続けてみることで、発見があるんだな。自分を客観視できて、何か抽象的な視点を持てるようになるんだよなあ。そういうのってやっぱり一人でいると生まれないのよね。しかしこの映画は、っっっとにおもろかったなあ〜〜
僕はね、こうした議論の結びを中庸とか加減とかいう一般論に求めるのが好きではないんだなあ。だから自分に向かって言おう、お前に必要なのは関わりである。若いお前は、それを軽視し過ぎているように感じる。孤独は、充分である。それには自信が、あるのです。
関わろう関わろう、あなたの孤独のためにも関わろう。
さもないと、恋と屈辱の意味を永遠に知ることができないから。
その中で良い音を生もう。良いものを作ろう。
うん、そうしよ!そうするわ!俺!おっけい、ありがとうございます。