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ぽっかり月がでましたら
タイトルは中原中也の『湖上』という詩の冒頭です。
ポッカリ月がでましたら
舟を浮かべて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖にでたらば暗いでせう、
櫂から滴垂る水の音は
昵懇しいものに聞こえませう、
ーあなたの言葉の杜切れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接吻する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言や
漏らさず私は聴くでせう、
ーけれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮かべて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
この詩は1930年に中原中也が発表した『湖上』という詩です。初めて読んだときぼんやりと切なげな詩だと感じました。短い文章の中に物語があると感じ、その物語がどんなものか考えました。
第一場面からわかること
•月がポッカリ出ている(夜)
•「出掛けませう」という言葉から誰かがいる
一文目の「ポッカリ」という言葉を辞書で引くと「軽く浮かんでいるさま」「穴が大きく空いているさま」と出てきます。この「浮かんでいる」「穴」という言葉からこの月は満月であると考えます。
また「出掛けませう」という語りかけるような文から、一連目ですでに話者以外に誰かがいることが想像できます。
第二場面からわかること
•場所が沖へと変化
•滴垂る水の音と言葉の杜切れ間は昵懇しい
第二連は一連目の出発から場所が沖へと変化しています。また「暗い」という言葉からポッカリ出ていた月は遠のいたか、隠れているのかと思われます。次に「櫂から滴垂る水の音」を考えます。
櫂は舟を漕ぐための道具です。
一連目のヒタヒタ打つ波(ヒタヒタは「水などが繰り返し静かに打ち寄せて軽くものに当たる音」の意味)から考えると滴垂る水は一定の間隔を持って落ちている。それがあなたの言葉の杜切れ間とちかしいという事は、私とあなたの間には一定のリズムで沈黙が流れていると考えられます。
また、ちかしいの漢字は「昵懇」(じっこん)と同じで、昵懇には「間柄が親しい」という意味があるので私とあなたの関係の深さを表しているとも考えられます。
第二連目では全体から少し暗い印象を受けました。
第三場面からわかること
•月が再び出てくる
•わたしとあなたは恋愛関係
•月の位置の変化
第三連目では月が再び登場します。
また、月の位置が降りてくる→頭上へと変化していることからこの詩で月はただの衛星ではなく、何かの比喩として使われていると考えられます。
第四場面からわかること
•あなた→話す わたし→聞く
•舟を漕いでいるのはあなた
「なほも」の部分からあなたは話し続けていたことが分かります。「けれど漕ぐ手はやめないで」はわたしの言葉かあなたの言葉か。
まず第二連と第四連が似ている感じました。
一文目の「沖に出たらば」と「あなたはなほも」の分はどちらも時間の経過を表しています。「水の音」と「よしないことや拗言」はどちらも音です。この音を聞くのはわたし。第二連で「あなたの言葉の杜切れ間と似ている」と考えているのはわたしなので、ここから類推すると「漕ぐ手をやめないで」と考えているのはわたしだと考えられます。
※第五場面は第一場面と同じ文になるため省略します。
この詩の主題
この詩は中原中也の想像•願望だと考えます。
理由を月という単語からみていきたいと思います。
月が出てきているのは第一•三•五場面。特に第三場面では強調して描かれています。そして第三場面で印象的な言葉が接吻です。ここから作者が月という単語に希望や愛を示しているのではないかと考えました。
第三場面では恋人への愛が、第一•第五場面では出発という希望が描かれています。そして面白いのが月の出てこない第ニ•第四場面です。第二場面では沈黙、第四場面ではわたしがあなたに一方的に望む願望が描かれています。これを並べると、
明→暗→明→暗→明と場面がコロコロと変化していることが読み取れます。ここから私は思い出を想起しているところを連想しました。
中原中也は1925年に泰子という女性と共に上京しています。しかしこの詩を発表した1930年にはすでに破局。泰子には小林(秀雄)という新しい恋人がいて、中原はいわば略奪された形で恋人を失いました。
中原と泰子の関係を描いていると考えると、この詩の一連目の「出掛けませう」は泰子との出発•上京。第二場面では心の変化。第三場面では恋人としての二人。第四場面では関係を終わらせないでほしいという気持ちを表しているのではないかと考えられます。
舟を漕いでいるのがわたしではなくあなたである理由はあなた=泰子と考えると、二人の関係は泰子次第であったという事になります。そして結果、泰子は中原の元を離れました。
第一•五場面は「出発」と書きましたがあなたを泰子だとすると、同じ舟に乗り込む=上京あるいは一緒にいる事だと考えられます。しかし現実には別れという終わりがきました。だからこそ、この詩は最初と最後が同じ文章なのではないでしょうか。最初と最後が同じということは繰り返し、完結しないということです。つまり泰子との関係は終わらないという事。
そう考えると、この詩は泰子への痛切な恋文のように感じます。