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家族という呪いについて

 こんばんは、いたんです。前回の投稿から、また随分と時間がたってしまいました。本格的に暑くなってきて夏本番も、もう目の前ですね。
 今日は、研究室での作業があり大学に行っていたのですが、研究室のメンバーや研究員さんと話が盛り上がり、そのノリでみなさんとご飯に行ってきました。そこで少し話した「家族と自分」「自己形成に家族が与える影響」について、今の自分の考えを書いておこうと思い、今パソコンの前に座っています。

家族に似てるって嬉しい?

 まず、最初は「母親に似てる、父親に似てるって嬉しいですか?」という問いから始まったのですが、結論から言うと私は、「父親に似てる」は多少嬉しいのですが「母親に似ている」は嬉しくありません。それは、母親を反面教師として、恨みの対象として考えていたからだと思います。姉に母親に「本当そう言うところお母さんに似てるよねー」と言われると、ギクッとして少し焦ります。「どこがだろう、どうしたらそうじゃなくなるのか、どうしても似てくるのかな、逃れられないのかな」と思うと少し絶望します。

母親と私

 母親と私は確かに似ていると思います。頭に血が上りやすいところ、変に正義感が強いところ、表現するのが好きなところなどなど。私の根本的な性格は父親譲りなところがあるのですが、突発的に出る気質みたいなところは母親譲りな部分が多くあります。
 幼少期、母親は私にとっていわゆる「神」のような存在でした。母親は、躾が厳しい方で、人前に行っても泣き叫んだり、わがままを言ったり、反抗したりしないように強く教えられました。するな、と言うより、するなんて恥ずかしいのだから、と教えられました。それにより、私たち姉妹は外に出れば「〇〇(母親)さんのところはさすがねぇ、大人しくていい子たちねぇ、うちの子なんて、、、」と褒められることが多かったように思います。褒められて嬉しそうにしている母を見て、母はすごい人なんだ、母にとって褒められる存在でいなければと言う意識が自然とついて行きました。どちらかというと過干渉で、監視したがり、管理したがる母親を信仰していたので、多少の苦しさを感じながらも違和感を感じずに過ごしていました。
 しかし、中学生に上がりみんなが携帯を持ち始めたり、恋人ができたりしていく中で、自分の母親は少し違うんだと言うことに気が付きはじめました。一番違和感を感じたのは、初めて彼氏ができた時のこと。当時母親に頼み込んで、一日30分の使用、かつ母親が内容を確認するというルールのもとラインを始めることができました。当然彼氏ができたら、またその以前も「好きな人誰?」等の会話があるじゃないですか。それを母親が見て「気持ち悪い、こんな会話を中学生がするなんて」と後日行ってきたんですよね。ここら辺の違和感が積み重なって、どんどん母に対する謎の信仰心が「恨み、怒り、失望、疑い」の感情に変わって行って、一気に母親を嫌いになりました。
 中学生の間も、高校生になってからも母親との仲は改善せず、ずっと恨んでいたように感じます。今まで、信じていたもの、核となっていたものを自ら疑いにかかる、疑わざるを得ないって本当に辛いんですよね。数年は、根っこを失ったように彷徨っていたと思います。

自由な自分と、縛られた自分との葛藤

 彷徨って「いた」と書きましたが、性格には今も彷徨っているんだと思います。でも、もう子供じゃない。親がこうだったから今私はこうなんだ、なんてもう通じない。通用しない、世の中はさせてくれない。でも、母親の呪いのような教育のせいで、根付いた自己がずっと邪魔をしてくる。平等じゃない、全然平等じゃない、変えられるなんて嘘だ、自分は変われない、家族の呪いがない人たちと同じスタートラインにすら立てない。恵まれた家庭環境にある人を見ると、「いいよね、あなたは」とつい歪んだ視点で考えてしまう自分が大嫌いになります。今もまだ、自己肯定感なんて一ミリもないような超ネガティブな性格を持って生きています。

 だいぶネガティブな話をしてしまいました。

 自分の染みついた性質は変えられるんですかね。変えられない説もあり、変えられる説もあり、結局は自分で決めなきゃいけないことなのかな。家族の呪いを解けるまでは、自分も家族を持とうとはなかなか持てないですね。家族は呪いだ、鎖だと言う認識が強すぎて、自分も家族を持とうとは思えない現状にいますね。

 まあ、きっと私にも明るい未来が待っていると言うことで今日はここらへんで眠りにつきます。てきとうな終わり方になってしまいましたが、また覗きにきてくれたら幸いです。それでは、また。


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