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東海道五十七次 徒歩の旅⑨島田宿~袋井宿

こんにちは。26歳女です。

2024年11月から12月に、18日間かけて東海道五十七次を歩きました。
この記事では、東海道五十七次を歩いた記録を書いていこうと思いますので、これから歩く人にとって参考になればと思います。

これまでの記事一覧はこちら↓


今回の内容

今回は、出発して8日目に歩いた島田宿~袋井宿について書きます。
大井川の川越人足が見ごたえがあったのと、5つの宿場を通ったため、今回の投稿は少し長めになっています。

島田宿出発

12月2日(月)、天気は晴れ。
この日は朝7時半前に出発しました。

東海道を歩いていた日数は18日間、観光日も含めると20日間外にいました。
2024年はとにかく運がよく、趣味の登山のときはたいてい晴れており(雨予報でも雨が降らなかったり)、自分は晴女だと周囲に豪語していました。
この東海道の旅の時も、にわか雨に遭うことはありつつも、天気予報に雨マークがついた日は1度もなかったので、私は正真正銘の晴女かもしれません。

宿泊したホテルはこちら↓


↑大井神社。
大井川の水害がないことを願って建立された、1100年以上歴史がある神社です。
女神さまが祀られていて、安産の神様、女性や子供の守護神として信仰されています。参勤交代の大名や飛脚が旅の安全を祈願したことから、旅行安全、交通安全の神様としても信仰されています。

参道の石垣は、大井川の川越人足たちが、仕事の安全を祈って、自分たちの出番の日に、大井川河原から毎日1個ずつ持ち帰って積み上げたものです。

ここの御朱印は、SNS映えするらしいです。


↑島田宿大井川川越遺跡に来ました。
昔の雰囲気が残る道になっています。

↑この道には、川越人足に関係する建物が多くあり、早朝にもかかわらず見学ができるように解放されていました。

さて、これまでの記事でも、人が人を担いで川を渡る「川越人足(かわごしにんそく)」についてちょこちょこ紹介してきました。東海道では、この大井川の川越人足が一番有名です。

川越人足(かわごしにんそく)の歴史

1601年に、徳川家康は人やモノの移動を円滑にするため、東京日本橋を起点とする五街道を整備しました。
そのうちの一つが、今回歩いている東海道です。

東海道は、海側を走る道であるため、いくつか大きな川を渡らねばならない道になっています。
そのうちの一つが、静岡県の大井川。
この大井川は、駿河と近江の国の境目となっていたため、幕府の防衛政策として架橋・通船が禁じられていました。そのため、川越人足と呼ばれる、人力で川を渡るのを生業とする専門集団が生まれました。

「箱根八里は馬でも越すが越すに越される大井川」と馬子歌で唄われるほど、難所となっていました。
増水によって渡れなくなると、水が引くまで何日も足止めをすることもありました。

↑肩車をして渡ったり、水位が高い時は連台(れんだい)という梯子のような乗り物を担いで渡りました。

料金は渡り方や、水の高さがどのくらいなのか(人間の股までなのか、胸まであるのか、肩まであるのかなど)によって決まっていました。

川越人足は、12歳ごろから雑用として働き、15歳くらいから本格的な訓練を重ね、長年にわたる厳しい訓練を経て、高度な技術を身に着けたそうです。

この歴史は、川越制度が廃止された1870年まで続きました。

↑詳しくはこちら

↑札場。川越人足に支払うお金の手続きや、川越人足が休憩をする場所など、他にもさまざまな見学場所があります。

↑こんな朝早くから見学ができるように解放してくれていて、本当に感謝です。

↑人形がいてびびりました。
川越人足の歴史は結構見ごたえがありました。
こういった歴史があるからこそ今があるのだと思うと、あらゆるものに感謝の気持ちが生まれてきます。

↑これが現在の大井川に架かる大井川橋。全長1026.4mあります。
下流に行くと、世界一長い木造の橋である蓬莱橋があります。

↑大井川。
川幅が広い。橋がとにかく長い。
約1㎞あるので、私の歩行速度で大体15分かかりました。

道中

↑渡り切ると、金谷宿に到着です。
金谷宿側から島田宿に向けた、川越人足跡がありました。
架橋によって職が失われた川越人足たちを救済した、義人仲田源蔵という人の銅像も近くにありました。

↑金谷宿本陣跡。

↑問屋跡。

↑もう富士山が点に見えます。

↑石畳が残る金谷坂のふもとに、おしゃれな施設がありました。
朝早くてまだ営業していませんでした。


↑石畳が始まります。
現在、日本の街道で石畳があるのは、神奈川県の箱根峠と、この金谷坂、そして中山道の十曲峠の3か所だけです。

金谷坂では、昔の石畳が残るのは30mのみで、その他は復元されたものです。

↑すべらず地蔵は、この石畳復元の際に、滑らないことを祈願したものです。
近くに、諏訪原城址というところがありました。

↑お茶畑に出て、菊川坂を下ります。

↑菊川坂の石畳は、江戸時代後期のものです。
昔は多くの旅人でにぎわったそうですが、この時は私しか歩いていません。


↑下り切ると、間宿(あいのしゅく)として栄えた菊川の里に到着です。
間宿は、宿場と宿場の間が長いエリアで中間地点として栄えたり、峠越えや川渡りの難所が続く場合に置かれました。
宿泊は禁じられていて、人足や旅人が休憩をしていました。
本格的な料理を出すことも禁じられていたため、「菜飯田楽(なめしでんがく)」と呼ばれる、味噌田楽と大根の葉っぱを炊き込んだご飯が生まれました。

↑金谷宿の昔話がありました。こういうの面白いんだよなあ。

↑いよいよ、小夜(さよ)の中山峠と呼ばれる、難所です。
最大の急登である青木坂。
登山をしなれている私でも、かなり大変でした。

↑峠道にはお茶畑が広がっています。

↑久延寺。ここには、小夜の中山峠で有名な夜泣き石に出てくる妊婦を供養した石があります。

その昔、この小夜の中山峠に住むお石という妊婦が、山賊に襲われて殺されてしまいます。お石の魂が傍にあった丸石に乗り移り、夜な夜な丸石からは鳴き声がしたとのことです。お石の腹の傷口からは子供が生まれ、その子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に、乳の代わりに飴で育てられます。
刃研師となった音八は、とある客の刃こぼれについて聞いたところ、「小夜の中山峠の丸石近くで、妊婦を切り殺した際に、石にあたったのだ」とその客が話したため、仇を討ったというのでした。

実際のお石の魂が乗り移った夜泣き石は、このお寺からは離れたところにあります。

↑音八が食べて育った飴にちなんで、「子育て飴」が生まれました。これは、もち米と大麦を原料にした水飴で、現在はこの扇屋で食べることができます。
月曜日のこの日は、営業していませんでした。
(食べたかった…)


↑お茶という文字が、遠くの山に見えました。

↑佐夜鹿一里塚。

↑一里塚を眺めていたら、この近くのお茶畑の方に声をかけていただきました。まだ静岡で美味しいお茶を飲めていない話をしたら、作ったお茶を持ってきて下さり、お土産にいただいちゃいました。
お茶畑は5代目で、山を切り開いて畑を作っていったとのことです。

1時間ほどこの周辺の歴史について教えて頂き、ものすごく面白い時間を過ごさせていただきました。
思い出の場所が残って嬉しい。和菓子にハマって、お茶も大好きになったので、ここのお茶を今後も飲みたいです。

↑日坂宿の東海道五十三次
小夜の中山峠の急登と、中央下には夜泣き石が描かれています。
歌川広重って本当にすごい。

↑秋葉常夜燈。
日坂宿は、たびたび火災が起こっていたことから、火災を防ぐ神である秋葉信仰が盛んでした。秋葉常夜燈は、秋葉神社にささげる明かりを灯すもので、道中安全の願いや火災への恐怖が示されています。

↑日坂宿本陣跡。

↑問屋場跡。

↑脇本陣跡。

↑現在、各民家には屋号を記した看板が吊るされています。

↑庶民が利用した旅籠。

↑身分の高い人が泊まった旅籠屋。
これは1852年の日坂宿大火という火事の後に再建されたものです。
1993年まで住居として使用されていました。

↑高札場。

↑下木戸跡。
宿場の治安維持のために、入り口には観音扉の門が設けられていました。
小規模だった日坂宿は、川が門の役割となっていました。

↑事任神社。願い事が任(まま)に叶うという神社。
境内には、坂上田村麻呂が手植えをした樹齢千年の杉の木があります。

↑川の対岸に神社がある面白いところがありました。
川が澄んでいてとても綺麗でした。

↑伊達方一里塚。
江戸から57番目に位置しています。

↑掛川宿に到着。
葛川一里塚。一緒に常夜燈もありました。

この近くには、激しく蛇行をしている逆川という川があります。
たびたび水害をもたらされ、堤が決壊をすることから、「欠川」と呼ばれ、掛川の地名の由来になりました。

↑12月にもかかわらず、紅葉がいい感じです。

↑菓子処もちや。
「もちパイ」の看板を見て、つい寄ってしまいました。
振袖餅というのが有名らしいですが、もちパイをいただきました。
お店の方に声をかけていただき、少し東海道の話をしました。

ここに立ち寄る現代の人は、私と同じように、東京を出発して1週間くらいで到着するらしいです。


菓子処もちやを過ぎると、掛川七曲りと呼ばれる、掛川城防衛のために桝形になった道を進みます。

↑塩の道。
かつては、塩や米などの生活必需品を運ぶ道でした。
一部の道は、秋葉街道と呼ばれ、信仰をされていました。

↑せっかくなので、掛川城にきました。

↑大池一里塚跡。

↑東海道は両端に松の木が植えられていました。
近年、虫害で枯れてしまう木も多く、東海道で現在も残っているところは限られています。

左の木の根元を歩こうとしていたところ、道路の右側に歩道があるよと、通りがかった方に教えて頂きました。

↑久津部一里塚跡。

↑東海道五十三次どまん中東小学校。

↑明かりのついた常夜燈が見れた!綺麗~。

↑これも常夜燈です。彫刻が美しい。

↑1616年に設置された袋井宿に到着。

↑本陣跡。
大名行列の一行は、朝4時ごろに出発をすることが多かったため、本陣の関係者は、午前1~2時に起床をしていました。

年間を通じて20~40回程度、宿泊として利用をされ、時には70回以上利用をされることもありました。月別にみると、12月の利用が最も多く、参勤交代の制度が生まれてからは、4月と6月の利用が多かったそうです。

本日の宿

この日は、ホテル観世に宿泊です。
5738円。

ホテルから離れていましたが、さわやかのハンバーグが食べたかったため、こちらにいきました。

タクシー捕まえられるなら乗ってしまおうと思いましたが、そもそも走っていないし、GOタクシーでも呼べない。
ホテルで自転車の貸し出しがあったのを知らず、頑張って歩きました。

宿泊者無料のランドリーも使わせていただき、この日は就寝。

本日の記録


さわやかのハンバーグを食べて、少し元気になった。


次回に続く

次回は、袋井宿~舞阪宿です。






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