東海道五十七次 徒歩の旅④平塚宿〜箱根宿
こんにちは。26歳女です。
2024年11月から12月に、18日間かけて東海道五十七次を歩きました。
この記事では、東海道五十七次を歩いた記録を書いていこうと思いますので、これから歩く人にとって参考になればと思います。
これまでの記事一覧はこちら↓
今回の内容
今回は出発して3日目に歩いた平塚宿〜箱根宿について書きます。
道中のエピソードを織り交ぜながら各宿場も書いていきますが、私は観光が目的ではなかったため、そこまで細かく記載はできません。
平塚宿出発
11月27日(木)、天気は晴れ。
この日は8時に出発をしました。
前日に宿泊した宿はこちら↓
神奈川県には9つの宿場があります。
小田原や戸塚・保土ヶ谷に宿泊する人が多かったことから、平塚は休憩地として発展をしました。
桓武天皇の子孫が、この地で亡くなった際に塚が作られ、それがいつしか平らになったため、「平塚」という地名になりました。
↑駅前の商店街はまだ閉まっています。
↑平塚宿の江戸見附。
これは宿場町の見張りの役目として宿場町を守っており、同時に宿場の出入り口を意味しています。
この見附は江戸川の出入り口にあるため、江戸見附と呼ばれています。
↑脇本陣跡。
幕府の公用人や大名が本陣に泊まり、その本陣の補佐的な役目をしたのが脇本陣です。本陣に次ぐ有力者が経営をしていました。
↑高札場跡。
幕府や領主の法令や通達を木札に書いて、ここに立ててありました。
↑問屋場跡。
車がない江戸時代は、幕府の公用をこなすために馬が活用されていました。
その馬を乗り継ぐための場所です。
↑大磯宿に到着です。
↑松並木になっています。
↑大磯宿の江戸見附。
↑本陣跡。
↑二宮村では、海水から塩を作るのが盛んでした。
↑小八幡の一里塚跡。
この地域は、八幡神社にちなんで八幡がついていますが、平塚に八幡村があったことから「小」がついて小八幡となりました。
↑酒匂川を渡ります。箱根の山々が見えます。
この酒匂川は、一時期は舟渡が行われていましたが、1662年に防衛のために舟渡が廃止され、「川越人足(かわごしにんそく)」と呼ばれる人たちが、旅人を肩車したり、輦台(れんだい)と呼ばれるお神輿のような台車に人を乗せて運んでいました。
川越人足は、静岡県の大井川というところが有名なため、また別の記事で記載をします。
↑小田原宿につきました。
小田原宿は、東京日本橋から約80kmの距離にあり、東には川越人足による川渡り、西には東海道一の難所である箱根峠があるため、多くの人がここで一泊をしていきました。
そのため、土産物や旅の必需品を売るお店が多く、かまぼこ、梅干し、ういろう、提灯などが名物となりました。
↑江戸見附跡。
小田原城の城下町を東海道が走っていたため、ここで監視が行われていました。
↑脇本陣跡。
日本が敗戦をする当日の1945年8月15日、ここら辺一帯の小田原市は、マリアナ諸島の米軍基地に帰還をするアメリカ軍の飛行機1機によって、無差別に焼夷弾空襲を受け、約400軒の家屋が焼失しました。
↑京都側の見附跡。
この周辺に多くの寺社があるのは、非常時に境内に兵を配置できるようにしているからだと記載されています。
↑箱根登山鉄道を下から覗ける場所がありました。
ここから箱根に向かっている最中、うなぎ屋さんの車に乗った方に声をかけていただき、エールをいただきました。
↑箱根の三枚橋に到着です。
↑三枚橋を左に折れると、和菓子屋菜の花がやっているお土産屋さんがあったため、小田原名物のみかんサイダーと小田原うさぎというどら焼きをいただきました。
本日のお宿
この日は、「ゲストハウスAZITO箱根町」というところに宿泊。
料金は4079円でした。
この日はたくさん宿の写真も撮っていたため載せます。
↑外観。ここは受付とバー、キッチンがあります。
食器や調味料が充実していたため、ここでお茶をしながら買ってきたどら焼きを食べました。
宿泊棟はこの隣。
↑入り口とロッカーがめっちゃレトロ。ロッカーは大きくて、ザックも菅傘も楽々入りました。
↑宿泊エリア。なんかすごく可愛い!!!
↑セミダブルサイズなので快適でした。
このゲストハウスに泊まると、箱根の湯という温泉が安く入れたため、夜はそこでゆっくりしました。
↑ゲストハウスにはバーもついていたため、夜に少しお邪魔しました。
ゲストハウスの店員さんも大阪まで自転車の旅をしたことがあるとのことで、色々お話を聞かせて頂きました。
気さくな店員さんが多く、一人でもゆっくりできました。
21時くらいからは、外国人旅行客でわいわいにぎわっていました。
本日の記録
この日は箱根峠越えに備えて、距離を抑えました。
次に続く
次回は箱根宿~三島宿です。