カイロほどのサイズの小袋の正体は意外にも・・・
「難民支援に興味はありませんか?」
なんの気なしに駅前を歩いている時に、とある難民支援団体に声をかけられた。
「これなんだかわかりますか?」使い捨てカイロほどのサイズの小袋見せられた。
それは食料だった。
世界には、飢餓や栄養不良に苦しむ難民が数多くその中には、母親が栄養不足で母乳が出せず、そのため生まれたばかりの赤ちゃんが命を落としてしまうケースもあるそうだ。
その時見せられた経口食料は、見た目はコンパクトながら非常に高い栄養価を持つそうで、難民支援団体はこれを配布し難民の栄養状態の改善に貢献しているという。
そこまで聞いて、涙が出そうになった。
私はその時、第一子の妊婦検診の帰りで、生まれてくる子供に「どんなところに連れて行ってあげよう」「どんなおいしいものを食べさせてあげよう」とあれやこれやと希望を膨らませていた。
我が子が大きくなったら、特別な日には肉やらケーキやらご馳走を食べさせてあげたい。それは当然沸き起こるであろう感情で、とりわけ贅沢という感覚もなかった。
ところが、飢餓に苦しむ国では、ご馳走どころか命を繋ぐための最低限の食料さえ満足ではない。
使い捨てカイロほどのサイズの無機質なパッケージの小袋。到底、それを見て「ご馳走だ」と心躍る人はいない。だが、その小袋を命綱にしている子供もいる。
なんて重い小袋だろう。
私は少額ながら、定額募金を始めることに決めた。
これから子供が生まれて支出がかさんでくる。我が家は恥ずかしながら裕福とは言えない。少額とはいえ、毎月固定の出費は厳しい。
それでも、飢えに苦しむ子供が少しでもお腹が満たされることを、ひいては、生まれてくる子供のためにも、世の中が少しでもよくなっていくことを願わずにはいられない。そのためのお賽銭のようなものだ。
そして、いつ日本も国難に見まわれるかわからない情勢である。たまたま、今、自分たちが食べられているだけで、この先も安泰かは誰もわからない。
災害や戦争が起こって、生命が脅かされる可能性は誰の身にもある。
そんな時は自分たちが助けてもらう必要がある。助け合う精神をもっていることが、いつかの自分たちを救うかもしれない。
遠回りの保身かもしれない。しかし、切実にその必要性を感じた。
あなたを幸せにしたい。だからこそ、見知らぬ誰かにも幸せになってほしいーーー。
産まれてくる子供のためにも。想いを込めた募金だ。