「今日、12月26日は母の命日」
私が小学5年生の時に母親が亡くなりました。
その時、母は42歳でした。
1964年12月26日…
その年は東京オリンピックが開催(64年10月10日)され日本中が感動し、未来に希望を持っていた時代。
金16個
銀 5個
銅 8個 合計29個のメダルを獲得
東海道新幹線が開通(64年10月1日)した時、小学校の校舎から目の前を走る新幹線車両にクラスメート達と手を振ったのも思い出のひとつ。
また前年ですが日米衛生初中継(63年11月23日)の放送があり「ケネディ大統領がダラスで狙撃され死亡した」との一報もテレビで見ていて驚いた…
でも遠く離れたアメリカの映像を日本で見るなんて不思議な感覚でもあったのを覚えている。
思いつくまま書いてるうちに話しがズレてしまいました💦
母の名は「なお」
母は4人姉妹の長女でした。
熊本から大阪に移り、水道局の事務をしていたとか
母は一度別の男性○○さんと結婚し、兄を産んで貧しくとも幸せに暮らしていました。
でも○○さんは病気で亡くなられ寡婦となりました。
夫を亡くした母は嫁ぎ先の家で、幼い兄と暮らしていたようです。
その時の事は余り聞いていません。
その後、父を紹介され再婚したのです。
父と母、そして幼い兄との3人で撮った写真がありました。
兄は屈託なく笑顔、勿論父も笑顔です。
しかし母の顔は少し寂しそう…
再婚後も生活は苦しいままだったと思います。
うちの父は仕事は真面目に働くのですが、お酒を飲むと少し荒れます。
のちに姉、そして私が産まれる頃から、父の兄に対する態度が酷くなりました。
何かあると兄が怒られていました。
今思っても、父は兄にとって良い父親ではありません。
兄は辛い時期を経て中学を卒業すると家を出て、叔母(次女)の知り合いが営む工場に就職しました。
勉強が出来たのに高校へも行けず悲しかったと思います。
母も辛かったはず…
母は祖母の看護(結核)をしているうちに感染し、何度も療養所と家の往復する事に。
家に戻っている時は、私が小学校から帰ると本を読んでくれたり、小さなホットケーキを焼いて食べさせてくれました。
痩せて顔色も良くなかったですが、母が居るとそばに寄り添いました。
少しサロンパスの匂いがしていた様な気がします。
12月25日は今で言うクリスマスの日。
特に何もしていなかったなあ…
26日、私と姉は晩御飯を食べていました。
父は母の枕元に座っていました。
食事を終えた姉が母の様子を見にいき…
「お父ちゃん、お母ちゃん息してないやん」
父はハッと気づき、脈を取ったみたい…
「○○さんのおばちゃん、呼んできて!」と父が姉に言い、姉はご近所に住むいつも母を気遣い、私たち子供を保護してくれていた○○さんの元に。
姉と私は○○さんの家に行き、そこでその晩を過ごしました。
その間に父親や○○さん、ご近所さんが動きまわり、医師を呼び死亡診断書、葬儀の手配などをしていただきました。
暮れも迫る28日に自宅にて葬儀をおこなう。
母は肺結核で苦しみ、疲れ果て亡くなりました。
母は何も思っていたのか…
再婚し苦労をかけた兄の事
小さい時から炊事洗濯、家事をしていた姉の事
小学5年生で甘えん坊の私の事
母の亡くなった歳を越えた時は「病気でなければもっと生きたかったはず」と思いました。
父も痴呆症気味の晩年、私が父とお墓参りに行くと、いつも「ごめんやで、苦労かけて」
「皆んなを見守ってや」等と話しかけ泣いていました。
母のお墓の前では正気に戻るのでしょうね。
父は2014年、92歳で生涯を終えます。
父と母の眠る長岡京市の霊園に行き、手を合わすたび「お母ちゃん早すぎるわ…親孝行したかった」と声をかける。
あと2時間半でまた12月26日になります。
いつまで経っても母が恋しい
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