10.交響曲6番「悲愴」
チャイコフスキーの功罪
それは悲愴交響曲を作曲したことだ
【今回の登場人物】
明神健太 白駒池居宅のケアマネジャー
葛城まや 明神が担当している利用者
葛城健一郎 まやの夫
10.交響曲6番「悲愴」
葛城健一郎には沢山の楽しみを教えてもらったと書かれていた。
テニスやハイキングが好きで一緒にやったが、テニスは上手になれなかった。でもハイキングは楽しめたとのことだった。
そして、健一郎はその当時からカメラに興味を持ち、重たいカメラを抱えながら、花や自然の景色を撮影していたという。
特に雲を撮るのが好きだったようだ。自由に姿かたちを変える雲がうらやましいといつも言っていたらしい。
さらに健一郎は読書も好きだった。それも哲学の本が多かったようで、まやにはさっぱりわからなかった。
しかし、健一郎が好きなことはまやも好きになろうとした。
まやが一番好きだったのが、健一郎が撮影した写真を見ることと、健一郎が好きなクラシック音楽を聴くことだった。
まやは静かに明神の話を聞いていた。
クラシック音楽の言葉が出てきたとき、明神はCDラジカセのことを思い出し、視線を上げて周囲を見回した。
そして、再び雑貨の中に半分埋もれてしまっていたCDラジカセを見つけた。
「クラシックなんか聞きました? 」
「それがどうしたらいいかわからないの。鳴らせるようになる? 」
明神は再びラジカセを荷物の中から引っ張り出し、コンセントを繋いだ。
「電源入りましたよ。なんか聞きます? 」
「嬉しい! えっと、6番お願い。」
「6番? 6番だけではよくわからないけれど… 」
崩れて散乱しているCDの中から6番を明神は探した。
「これですか? チャイコフスキーの交響曲第6番、悲愴かな。確か、ご主人が一番好きだと言ってた曲ですね。」
「そう! チャイコ‥ フスキー! 6番! 一郎さんが一番好きだった曲! かけてくれる? 」
明神はカラヤン指揮ベルリンフィルのCDを入れた。
その曲は暗くどんよりした旋律で始まった。
明神はクラシックのことなど全く分からない。なんて暗い曲なんだと思ったが、「ああ、この曲… 」とつぶやいて微笑んだまやの姿を見て、何故か嬉しくなった。
恐らくは長い間聞いていなかった、或いは聞けなかった、夫の思い出がいっぱい詰まった懐かしの曲をまやは聞いている。そう思うと、明神はなんとなく心が和んだ。
「日記の続きはどうします? 」
「読んでちょうだい。音楽聞きながら思い出すわ。」
明神は頷くと日記の続きを読んだ。
そして、長男の剛が生まれた。
母親としての喜びが一杯日記には綴られていた。
しかしそこから日記の内容は徐々に陰りを帯びてきた。
「そうそう、一郎さん毎日遅かった… 」
まやは急に思い出したかのようにつぶやいた。
日本は当時、急速な経済成長期になり、サラリーマンたちは猛烈な忙しさの中にあった。
当然健一郎も毎日が残業で、剛が起きている姿を見ることがなかった。
特に大手の銀行員である健一郎は残業、休日出勤は当たり前の状況になっていた。
まやは多忙な状況のことは理解していたので、剛の育児を一人で頑張っていた。
夫が眠れるようにと、剛が夜泣きをしたら、外に出てあやしたりもした。
時には健一郎がまやに怒鳴ることもあったが、剛が泣くのを見ると、健一郎は悲しそうな表情を浮かべ部屋に閉じこもった。
世間がアポロ11号の月面着陸でにぎわっていた1969年、まやの両親が相次いで病死した。
そのためまやも精神的に疲労の極みにあった。
育児と両親の死で、まやは健一郎の精神的疲労に気づく余裕がなかったのだ。
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