10.世界最高峰を目指す
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第3話 「南極ゴジラを見た」
【今回の登場人物】
横尾秀子 白駒池居宅のケアマネジャー
羽黒 剛 横尾が担当する利用者
スチコ 羽黒の隣家に住む羽黒の友人
もしかしたら
利用者のためと言うより
自分の不安をなくすための行動なのかもと
迷う時
10.世界最高峰を目指す
「えっとな、ほら万博が大阪であった年、そう1970年の5月のことや。」
「何がですか?」
横尾はまた羽黒のホラ話に付きあわなければならないのかと思うと、返す言葉もそっけなかった。
「何がですかって、日本人が初めてエベレストに登頂した時のことだよ!」
あまり聞く耳を持たない態度の横尾にイラついたのか、羽黒の声が大きくなった。
なんでホラ話をするときはこんなに元気になるんだろうと、横尾は訝った。
「1970年、5月11日。日本山岳会の松浦輝夫と植村直己の二人が日本人で初めてエベレストに登頂した日。知らんのか?」
「万博は知ってますけど、エベレストの話は聞いたかもしれないけど、覚えてないわ。」
「そうか。それでもエベレストくらいは知ってるだろ。」
「世界で一番高い山くらいは私でも知ってます。それに簡単に登れる山ではないということも。」
その横尾の発言に気をよくしたのか、羽黒は日本山岳会がどれだけの人員と物量を必要としたとか、ベースキャンプに至るまでの大変な道のりについて話し始めた。
「でもな、一番すごかったのはシェルパの連中や。俺たちよりずっと貧しい装備で、酸素ボンベとかのめっちゃ重い荷物を8千メートルまで担ぎ上げるんだからな。あいつらこそもっと称賛されてもいい連中なんやけどな。」
横尾は、きっと何かの登頂本を読んでの知識なんだと思いつつ、早くこの話を終わらせたいと思った。
そこで本人が返答しにくい質問をしてみた。
「それで、羽黒さんはエベレストの頂に立ったんですか?」
少し戸惑った表情を浮かべた羽黒は視線を横尾からそらしながら言った。
「だから言ったじゃないか。最初に登頂したのは松浦と、植村の二人だって。第二次アタックで確か平林だったかな、登頂したんだ。で、俺はな、第三次アタック隊として待機しとったんやけど、天候が悪化して断念したんだ。」
「そ~なんですか。たとえ登頂できなくてもエベレストにはアタックしたんですね。それだけでも凄いことじゃないですか。」
さすがに登頂したとまでは羽黒は言わなかったが、横尾はちょっと意地悪な質問をしてしまったと思い、羽黒の話を受け止めたのだ。
「そうだろ。あそこは常に死と向かい合わせの場所だからな。俺はそんな危険なところも乗り越えてきたからな、簡単には死にはせん。」
横尾に受け止められたことで気持ちが落ち着いたのか、あるいは疲れが出たのか、前回と同様に羽黒はベッドに移動し座り込んだ。
「俺の人生… ファンタで溢れてるやろ。まだまだあるんやで… 」
羽黒は力ない言葉を発した。
「まだまだ冒険話があるんだったら、しっかりと体調良くしてから話をしてください。入院したくない気持ちはわかるけど、死にに行くんじゃないのだから、良くなったら帰ってこれるのだから考えてみて。明日また来るから。」
「わかったわかった… 」
と、しんどそうに言うと、羽黒はベッドに横になった。
羽黒の家を出た後、横尾は思い切って隣室のスチコの家を訪ねた。
横尾が訪問中に何度か羽黒の所にスチコは顔を出していたので、横尾もスチコも顔は知っていたが、言葉を交わすことはなかった。
ヒョウ柄のスウェットを着ているスチコは、横尾に対して敵対心があるがごとく睨みつけたが、横尾が羽黒のことを心配して、もし気になることあれば電話をしてほしいと名刺を渡すと、「ええよ。」と一言だけ言って、ドアを閉めてしまった。
横尾はそのスチコの態度に少しイラっと来たが、単に弁当の買い物をして小遣い稼ぎしているだけではなく、スチコも羽黒のことを気にかけているのではないかと思い直した。
横尾秀子の心の中も心配な思いとともに、果たして自分の判断や行動が確かなものなのか不安ばかりが増幅していった。
「本当に羽黒さんには元気になってもらわないと… でも、もしかしたら、私の不安を消したいがために羽黒さんに入院を勧めてるのかしら… 羽黒さんのことより私の不安を追い払いたいだけだったとしたら… 」
横尾は自転車を押しながら自問自答していた。
しかし答えは出なかった。