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34.薬師太郎の青春(その2)
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第1話「彼方の記憶」松本編
今回の登場人物】
薬師太郎 山が大好きな青年 高校大学と山ばかり行っている
谷川まさみ 太郎の同級生 喫茶山稜のオーナーの親戚の娘
蓼科明子 太郎の同級生 蓼科総合病院院長の娘
蓼科明男 明子の弟 高校生
忘れられぬ記憶
それは忘れることを許さない記憶なのかもしれない
34.薬師太郎の青春(その2)
1967年夏。太郎は夏休みを利用して松本に来ていた。偉大な登山者として尊敬していた故加藤文太郎の足跡を追って北鎌尾根単独行の準備のため帰っていたのだが、毎年恒例の母校の恋生岳日帰り集団登山の送り出しの意味もあった。
ところが、集団登山の引率OBの一人に体調不良者が出て、太郎が急遽引率者として同行することになった。
7月某日、バスで登山口へ向かう女鳥羽高校の後輩たちを送るために、明子とまさみも母校に早朝から来ていた。
集団登山のメンバーには明子の弟、明男もいた。
太郎とともに山に登っていた明男にとっては恋生岳は急登とはいえ、苦になる山ではなかった。
「明男君、へたばってる奴のサポートよろしくな。」
太郎は明男に声を掛けた。明男はⅤサインで返した。
太郎は明子にも声を掛けた。
「それじゃ、ちょっと散歩してくる。下りてきたら山稜で集合ね。」
と言って、ニコッと笑った。
明子も笑顔で返した。
「では、私たちは安曇野までハイキングに行きましょうか。」
谷川まさみは蓼科明子に声を掛けた。
「うん、お弁当しっかり作って来たしね。」
明子にとって友人のまさみとのお出掛けは久しぶりだった。日々医学の勉強で疲れ気味だっただけに、気分転換にもなった。
そして二人は豊科まで電車で行き、そこから安曇野の地をおしゃべりしながら歩き始めた。
この日、太平洋上には8号と9号の二つの台風が接近しており、必ずしも安定した天気とは言えなかった。しかし現在のように刻々と天気情報が入る時代ではない。ある意味観天望気に頼るところもあった。
朝方は天気が良かった。明子とまさみは道祖神巡りをしながらのんびりと歩いていた。
「ねえねえ、あきちゃんは太郎さんと結婚するんでしょ? 」
まさみが意地悪っぽく聞いてくる。
「そんなの、考えたこともないよ。私たちまだ学生だし、それに医学の勉強は本当に大変で、デートもろくにしてないの。」
「そうだよね~ お医者さんになるって大変だものね。でもいずれは太郎さんと結婚するんでしょ? 」
そう言うと、まさみはにたっと笑った。
「どうかな~ そうなればいいけど、今は勉強のことで頭が一杯だから… 」
明子がはにかんで返事をした時だった。
肌触りが悪い冷たい風が二人を吹き抜けた。
二人は無言で山を見上げた。
黒い雲が山を覆うように接近していたのだ。
今まで空の変化に全く気付かず二人は歩いてきたのだが、その空を見た明子が反応した。
「まさみちゃん、雨が降るよ。駅まで戻ろう。」
「え? まだお弁当も食べてないし! 」
まがりなりにも山を歩いている明子には、この空が危ない空なのだとわかった。
二人は足早に駅までの道を戻った。
「午前中のうちには登頂してるだろうから、大丈夫だとは思うけど… 」
明子は山に登った学生たちのことを心配した。
遠くで雷鳴が轟いた。北アルプスはあっという間に厚い雲に覆われていた。
二人が豊科駅の駅舎にたどり着いた途端、ひときわ大きな雷鳴が地面をも揺るがした。
明子もまさみも悲鳴を上げた。
同時に激しい雨が降り始めた。
明子の心に不安がよぎった。
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