4.霧の中の過去
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第1話「彼方の記憶」
【今回の登場人物】
薬師太郎 75歳 アルツハイマー型認知症と診断 要介護1
薬師通子 73歳 太郎の妻
4.霧の中の過去
薬師太郎は書棚からアルバムを一杯引っ張り出してリビングに広げていた。
登山が趣味だったため、山へ行くたびに撮っていた写真が、数十冊のアルバムの中に収められていたのだ。
「えーっと、どこの山だっけ… わからんなぁ… 」
太郎はイラつきながらアルバムをぱらぱらとめくっていた。
「ああ、これもわからん。なんでわからんのだ。」
太郎は自分自身に毒づいていた。
そこへベランダで洗濯物を干していた妻の通子が下りてきた。
「あらお父さん、いきなりアルバムをそんなに広げて一体どうしたんですか? 」
「どうもこうもわからんのだよ。こんな時に通子はどこへ行ってたんだ? 」
「どこって、ベランダに洗濯物を干しに行ってたんですよ。」
「なんでこんな時に洗濯物なんか干しに行くんだ! え~っと… 」
混乱してイライラしている太郎に、通子は返す言葉が見つからなかった。
毎日のように生じる太郎の突飛もない行動と言動に、辟易していたのだ。
それでも通子は太郎の思いに付きあおうとした。
「これはお父さんが好きな山の写真のアルバムですよ。これがどこの山だっていつも教えてくれたじゃないの。」
その通子の言葉掛けに、太郎は少し落ち着きを取り戻した。通子がそばにいるだけで、太郎の気持ちは少し不安から解消されるようだった。
「いっぱい登りすぎて、どこの山の写真なのかわからなくなった。」
さらにアルバムをめくると、太郎と同行者が一緒に写っている写真が出てきた。
太郎はその写真を指差しながら、
「これは淳子か? 」と娘の名前で聞いてきた。
「何を言ってるんですか、それは私ですよ。一緒に薬師岳へ登った時の写真ですよ。」
通子のその言葉に、太郎は通子の顔をじっと見つめた。
「そうなのか? 通子に似てないけどな~ 」
通子はその太郎の言葉にむっと来た。
「ばあさんの顔になって悪かったですね! 」
そういうと、通子は部屋から出ていった。
「なにを怒ってるんだ、あいつは… 」
太郎はそうつぶやくと、再びアルバムをめくり始めた。
通子は、年齢を経た自分の顔のことを揶揄された気がして、無性に腹が立った。
これまでの言い知れぬ不満が積もりすぎて、太郎の言動や行動が、認知症がさせているのだとわかっていても、通子の気持ちの中には腹立たしい思いが消えることはなかった。
一方の太郎も濃くなっていく不安という霧の中でもがいていたのだ。
自分の生きてきた道、自分が歩んできた人生の記憶さえも不明瞭になり、自分が自分であるための歩んできた道程さえも濃い霧の中に包まれようとしていた。
いわば太郎は自分の人生探しの旅を、散らかしたアルバムの中で必死になって探し出そうとしていたのかもしれないのだった。
しかし、太郎も通子もある一定期間の写真がないことには気づいていなかった。
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