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25.人生を美味しく生きる
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第3話 「南極ゴジラを見た」
【今回の登場人物】
横尾秀子 白駒池居宅のケアマネジャー
立山麻里 白駒池居宅の管理者
想井遣造 麻里の友人
正木正雄 居酒屋とまりぎのオーナー
人生が美味しいと思わせる場所
そんな心の癒しになる場所があれば
今よりは前向きに歩けるかもしれない
25.人生を美味しく生きる
舞台は再び白駒地区に戻る。
羽黒剛の遺体は火葬された。横尾秀子と立山麻里だけが見送った。
スチコは来なかった。お経も何もない、単に火葬されるだけのものだった。
横尾はここでようやく羽黒の顔と再び対面することができたのだが、思ったより穏やかな表情だと思い、少し気持ちが落ち着いた。
立山がつぶやいた。
「羽黒さん、もしかしたら、横尾さんやスチコさんがいるから、病院へは行きたくなかったのかもしれないですね… 」
横尾にとって思いもよらぬ言葉だった。
「そうかしら… 」
横尾は否定したが、もし羽黒にとって、自分がそのような存在になっていたのなら、少しは報われると思う反面、羽黒に対して申し訳ないという思いも浮かんだ。
しかし数日後、立山麻里の言葉は当たらずとも遠からずという言葉になるのだった。
この日の午後、立山麻里は研修で不在となった。
明神健太も徳沢明香も、終業時間になると速やかに帰ってしまった。
横尾も一人職場にいるのは切なくなるだけだったので、早々に片づけて事業所を出た。
雨が少し強めに降っていた。いつもは自転車通勤の横尾だったが、雨の日は歩いて帰ることにしていた。
心に冷たい雨の中、駅に向かって歩いていると、ふと、ある居酒屋の暖簾が目に付いた。
「とまりぎ」と書かれている。
これまで何度もこの店の前を通っているのに気にも留めなかった。
「ちょっと、飲もうかな… 一人でも飲めそうなところかしら… 」
少し不安はあったが、まるで惹きつけられるように、横尾はその暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
温和な表情の店主が迎えてくれた。正木正雄だった。
正木はすぐに初めての客だと分かり、もしよければと、カウンターの席に案内した。
横尾も誰かと話をしたかったので、勧められるまま、カウンター席に座った。
横尾は店の中を見渡した。客はまばらだった。
どこか違和感のある大型テレビが天井から吊るされていた。
テレビはついておらず、そのテレビ以外は、ただただ穏やかな雰囲気が感じられる店だと思った。
「テレビ、あえへんでしょ。あれね、ラグビーやるときだけ付けますねん。その時はこの居酒屋がスポーツ居酒屋になりますんや。まぁワールドカップ中だけですけどね。」
「店主さんはラグビーが好きなんですか?」
「あはは、にわかですけどね。はまってしまいました。お客さんはラグビーお好きで?」
横尾は少しだけはにかんだ表情を浮かべ、「まぁ少しだけ」と答えた。
店主と呼ぶ横尾に、正木は自分のことを親父さんと呼んでくれたらいいと言った。
「ここは常連さんが多いんですか? 」
「半々やね~ ワールドカップの試合があるときは、外人さんで一杯になります。まぁそれもあとわずかやな~ 今日は常連は誰も来てませんわ。」
横尾は正木と話しながら飲んだ最初の一杯のサッポロ生ビールが、とても美味しいと感じた。
思わず、「あ~おいしい!」という言葉が出た。
「美味しい時間、味わってください。人生美味しくいきましょう。」
正木のその言葉は、横尾にグッときた。
「人生美味しく… そうですよね~ 」
長年の客付き合いから、正木はこの初めての客が、心に重荷を抱えていることはすぐに分かった。
正木は横尾にどんな仕事してるのかとか、どこから来てるのとか、そのような余計なことは一切聞かなかった。話したくなったらお客の方から話してくる。そう思っていたからだ。
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ほどなく、「まいど~ 」と言って、一人の男が入ってきた。
「いらっしゃい。想井さん、今日は誰も来てへんよ。」
「そうやろな~ 明日の南アフリカ戦にくるつもりやろうからね。」
そう言うと、想井はカウンターの座席に座り、同じくカウンター席に座っている横尾に会釈した。
少しほろ酔いの横尾も想井に会釈した。
「あ、この人、常連さんの一人ですわ。私と同じ大阪出身やから、しょうもないダジャレばっかり言いよるけど、適当に聞き流してやってください。」
「しょうゆうことです。」
想井はテーブルの上の醤油を持ちながら、横尾に答えた。
横尾は最初は何を言ってるのかわからず、きょとんとしていたが、やがてそのダジャレの意味が分かったのか、「あ、しょうゆうことね!」と言って噴き出した。
「なんや、昔の衛星中継みたいやな~ 随分遅れて返事が来たな~ 」
想井遣造は白駒池居宅事業所には写真を届けに訪問したことがある。
しかしその時には横尾秀子はいなかったため、お互いに相手のことを知らない状態だった。
横尾は、正木と想井との三人でのたわいもない話に心が救われた。
最初は心の中にため込んだつらさや愚痴を一杯吐き出したいと思っていた。しかし、二人と話をしているうちに、前向きな楽しい話する方がずっと気持ちが楽になると感じた。
「人生美味しくいきましょう。」という正木の言葉の意味が分かったような気がした。
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