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8.山想小屋
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第4話 「ぬくもりの継承」
東京渋谷区白駒地区にある、白駒池居宅介護支援事業所のケアマネジャーや、それに関わる人々、そして北アルプス山麓の人達の物語である。
【今回の登場人物】
想井遣造 立山麻里の相談相手。自称カメラマン
鵜木幡猛 山想小屋の小家主
高森 徹 山想小屋のアルバイト生
山小屋にも
様々な人生模様がある
働く人にも
訪れる人にも
8.山想小屋
それは今から5年前の話だった。
北アルプス三大急登のひとつと言われているこの尾根を登りきったところに「山想小屋」はあった。
想井遣造は、年々衰えていく体力のことを感じながら、やっとの思いで「山想小屋」に到着した。
想井がこの山小屋を訪れるのはこれで4回目だが、今回は二年ぶりのことだった。
小屋の前のベンチからは信州の平野が見渡せた。ここは素晴らしい雲海が見れるということで有名な場所なのだ。
今は雲は姿を見せず、胡麻粒よりも小さな建物や、田畑の緑がはっきりと見えていた。
そしてほんの数メートル登った場所からは、槍穂高連峰の勇姿が見渡せた。
想井遣造はこの小屋の前から見る雲海が大好きだった。初めてこの山小屋に泊まった時の朝焼けの雲海があまりにも素晴らしく、すっかり気にいってしまったのだ。
しかし、この「山想小屋」に辿り着くには5時間という長い時間、喘ぐような登りを登ってこなければならないのだ。
そのためか、素晴らしい景色が見れる割には登山者に敬遠されがちな山であり、山小屋でもあった。
8月の盆過ぎのこの時期、既に登山者はまばらになっていた。
「ウキハタさん、こんちわ… 」
想井は息を弾ませながら、小屋の受付にうつむいて座っている小屋主の鵜木畑に声をかけた。
鵜木畑は邪魔臭そうに顔をあげた。そして、想井の顔をほんの少しの間見つめてから、顔の不精髭に手をやった。
「あんたか… 去年姿見せんかったから、忘れちまってたよ。」
鵜木畑はぶっきらぼうに答えた。彼の仏面顔は有名だったが、今日は特にふてくされたような顔をしていた。
想井が宿泊簿に記入していると、彼の横にバイトの学生が二人、罰の悪そうな顔をして出てきた。
「それじゃ、おりますから… 」
バイト学生の言葉に鵜木畑は答えなかった。
その鵜木畑の態度に二人のバイト学生はムッとした表情で小屋の外へ出ていった。
「こんな小屋、二度と来てやるもんか!」
一人の学生が外で吐き捨てるように言った。
鵜木畑は横を向いて、髭をなぞるだけだった。
想井はその一部始終を見てしまい、小屋まで辿り着けたという爽やかな気分は何処かへ飛んでいってしまった。
「あの-、何かあったんですか?… 」
想井は恐る恐る鵜木畑に声をかけた。
「全く、近頃の若増は生意気なことばかり云いよって! ボッカを頼んだら、今は何処の小屋もヘリコプタ-を使いますよなんて抜かしよった。こんな小さな小屋がヘリなんかチャ-タ-出来ると思ってんのか、アホタレが!!」
鵜木畑は怒鳴りながら立上り、奥へと引っ込んでしまった。
「これはなんか大変そうだな… 」
想井はつぶやいた。
想井は小屋の厨房を覗いた。
そこには顔見知りのバイト学生が一人で夕食の準備をしていた。
「高森君、久しぶり!」 想井は明るい声をかけたが、高森は浮かない顔をしていた。
バイトが一人二人と帰ってしまい、彼一人で厨房を切り回していたからだ。
高森は3年前からこの「山想小屋」でバイトをしていた。
当時は大学の3年生だったが、IT関係の仕事につきたいと思い、卒業後にITの専門学校に行くつもりだったが、今年の夏休み一杯はこの小屋で働くことにしていた。
想井とは3年前に顔見知りになっていた。
想井は早々に高森を手伝い始めた。登山者の数が少ないからといえども、小屋を鵜木畑と高森の二人だけで全てを切り回すのは大変なことである。
想井は高森の仕事を手伝いながら、鵜木畑が何故機嫌が悪いのかを聞いてみた。
「最近、鵜木畑さんのお母さんから手紙が来た見たいなんです。それから機嫌が悪くて。それでなくても偏屈親父なのに。」
確かに鵜木畑が偏屈であることは、想井にもわかっていた。
愛想など元々ない男が余計に不機嫌になったというのだから、想井には彼がどんな態度をとり続けているかが察知出来た。
今年から来たバイト学生が腹を立てて出ていったのも、無理からぬことだったということも高森の話から分かった。
「それにしても、どんな内容の手紙だったのだろう…」
想井は鵜木畑の事が気になった。そこで数日、小屋を手伝いながら滞在することに決めた。
「想井さんがいてくれるのなら、本当に助かります!」
高森の顔に初めて笑顔が表われた。
彼にとってはすっかり慣れ親しんだ小屋ではあったが、最近の鵜木畑の態度には、高森も嫌気がさしていたからだ。
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「それじゃ、明日さっそく歩荷をやってくれ。」
想井が仕事を手伝うというと、鵜木畑はそれだけ云って、外へ出ていってしまった。
「ボッ、ボッカだって!」
想井の心の中にどっと疲れが溢れ出てきた。今日あれほどあくせくして登った山を再び降りて、そして3、40キロはあるだろうと思われる、飲料缶や食料を担いで、再びこの急坂を登ってこなければならないのである。
考えただけで、全身から力が抜けてしまった想井であった。
しかし、一度仕事を手伝うと云ったからには、歩荷だからと云って、断る訳にはいかないのだ。
確かに今の時代、物資はヘリコプターで運ぶ小屋がほとんどだ。昔ながらの歩荷で荷物を上げる小屋は数少なかった。
翌日、登山者逹の朝食を高森に任せ、想井は早朝に空身で山を降りていった。帰りは糞重たい荷物を担ぎあげなければならないので、余分なものは持っていけない。
昨日の疲れがまだ足に残ってはいたが、想井はかなり早いスピ-ドで麓まで降り、そして荷物を受け取った。
40キロ以上もあるその荷物は想井の肩にグッと食い込み、最初は立つことも出来なかった。そしてようやくの思いでヨタヨタと再び小屋を目指してなんとか歩き出したのだ。
想井がゆっくりと登り始めたとき、4人組のおばさん登山者と一緒になった。彼女達も山想小屋目指して登り始めたところだった。
「随分重たそうですね。山想小屋まで登るんですか。」
4人組の一人、ショ-トカットの女性が、明るく想井に声をかけてきた。 想井は汗を拭きながら、「はい… 」と頷くだけだった。
4人組の女性はそれは賑やかだった。特に最初に想井に声をかけてきた女性はしょっちゅう冗談を云ったり、他のメンバ-に悪戯をしたりしていた。 そんな風にはしゃぎながら登っているので、急な登りも苦になっていないようだった。
想井には彼女達が山には慣れていないということがちょっと見ただけで分かった。しかし、荷物が圧倒的に軽い彼女達の方がどんどん先に行ってしまい、想井は、その後をのたりのたりと登っていったのだった。
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