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23.彼方の記憶に触れる

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」

第1話「彼方の記憶」

【今回の登場人物】
  立山麻里 白駒池居宅の管理者
  徳沢明香 白駒池居宅の新人ケアマネジャー
  薬師太郎 明香が担当する認知症高齢者
  薬師淳子 太郎の娘
  想井遣造 麻里の飲み友達

心が苦しくなるほど切なく、なのにどこか心潤う、遥か彼方の記憶
      23.彼方の記憶に触れる

 徳沢明香はテーブルの上の山の雑誌を取り上げた。薬師淳子がわざと置いた本だった。
 「薬師さん、山登りされてたんですか?」 
 緊張した面持ちで明香が聞いた。ここからは明香が頑張らなければならない。
 「そうだよ~ アルプスはみんな登ったな~ 」
 太郎は機嫌がよかった。
 「すごいですね! 」
 明香にはアルプスがどこなのか、どういう山なのかと言うこともわからなかったが、アルプスを全部登ったというのは凄いことなんだと思った。
 「えっと、あんたなんて名前だっけ? 」
 「あ、徳沢明香です。」
 「徳沢かぁ~ 槍ヶ岳行くときによく通ったな~ あんたも山登るの? 」
 「いえ、私は山は苦手で…」
 「山は苦手? そういう人ほど山にはまるんだ。えっと、あんたなんていう名前だっけ?」 
 「徳沢明香です。」
 「あ、そうだったな。徳沢、槍ヶ岳へ行くときに通る場所だ。」
 「そうなんですか? 」
 薬師太郎と徳沢明香は、お互い戸惑いながらもなんとか会話を続け、穏やかな時間を過ごしていた。

 立山麻里は薬師淳子と別室で話しあっていた。
 デイセンターの利用者として、そのセンターをよくするためのアドバイザーになってほしいという太郎への説明がはたしてよかったのかどうか、麻里は淳子に聞いていた。
 「お父様にお願いしたいことは、ごまかすことなく伝えたつもりです。でもデイサービスの利用という視点で行けば、お父様をだましてしまったことになると思うのです。申し訳ありません。」
 麻里には太郎のデイサービス利用に際し、やはりだましている感覚はぬぐえなかった。そのため最初に淳子にそのことを謝ったのだ。
 淳子は麻里を見つめた。
 「私もそこはよくわかりません。人間薬師太郎をだましていると言えばそうかもしれません。正しいことではないと言われればそうだと思います。でもそのような思いを持っていただいていることに意味があると思います。それに今回久しぶりにシャキッとした父の姿を見たような気がします。仕事に関することはやはり戦士だったんだなって。」
 淳子は淡々と語った。
 「ありがとうございます。私たちもこれからお父様の人としての尊厳を傷つけないよう注意を払っていきます。」
 麻里自身、妙に落ち着いていた。
 これは薬師太郎との相乗効果だったのかもしれないと、麻里は後で思った。太郎とのコミュニケーションがうまくいったから自分も落ち着くことが出来たのだと。
 「お父様には明日からのデイサービスの目的をお伝えしましたが、伝えたことをすぐに忘れてしまわれるかもしれません。何度かお父様にお伝え願えればと思います。明日のデイの迎えは、松本さん自ら来てくれるそうです。私たちもその時間に来て、お母さまにはお自宅にいられるよう、送り出しを手伝いますし、デイセンターにも顔を出しに行きます。」
 「わかりました。うまくいけばいいのですが。よろしくお願いします。」
 淳子は頭を下げた。成功するかどうかはわからないし、これが正しいことなのかどうかもわからなかったが、こうして専門職が真摯に動いてくれたこと、それに賭けるしかなかったし、とにかく何らかの行動は必要なのだと淳子は思った。

 麻里と淳子が居間に戻ると、太郎と明香も立ち上がった。
 話が限界だったのかもしれない。
 麻里は壁にかけてある城の写真に気が付いた。城の背景には雪をかぶった山が写っていた。
 最初に居間に入った時にもその写真は壁掛けてあったのだが、その時は太郎に集中していて気付かなかったのだ。
 「これはどこのお城ですか?」
 麻里は太郎に聞いた。
 太郎はうっすらと笑顔を浮かべると、その写真を眺めた。
 「これは松本城だ。私の故郷の城。」
 麻里も太郎の横に立ってその写真を眺めた。その後ろから明香も見つめていた。
 「故郷のお城ですか! 素敵なお城ですね。背景の山もきれい! 」
 「そうだろ~ 後ろに写っている山は、えっと… 」
 太郎は思い出せず、淳子に助けを求めた。
 「常念岳」
 淳子はあっさりと答えた。
 「あ、そうそう常念岳だ。松本城の天守閣から、この山の横に槍ヶ岳が見えるんだぞ。」
 太郎は自慢げに麻里に答えた。
 「槍ヶ岳? そうなんですか!? 」
 麻里は槍ヶ岳と言う名前は知っていたが、何処にあるのかもわからなかったし、ここから槍ヶ岳が見えると言われてもよくはわからなかった。
 「この写真ではわからないな~ 」
 太郎がつぶやいた。
 そして、少ししわがれた声でつぶやいた。
 「ああ、もう一度行ってみたいな… 」
 そう呟いて振り返った太郎の目を麻里は見た。
 その時麻里の心に衝撃が走った。
 一瞬目が合った太郎の、その目の表情に、何とも言えぬ切なさと淡い希望の表情を感じとったのだ。
 それは遥か彼方にある記憶への郷愁のようにも感じられた。
 想井遣造が話をしてくれた「おばばが言ってた、相手の目から感じとるというのは、こういう感じなのだ」と麻里は思った。


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