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31.民芸喫茶「山稜」にて(その1)

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第1話「彼方の記憶」松本編

【今回の登場人物】
  立山麻里 白駒池居宅の管理者
  想井遣造 居酒屋とまりぎの客 麻里の相談相手
  薬師太郎 認知症の人 故郷が松本
  薬師淳子 太郎の娘 旅行会社勤務
    谷川まさみ 喫茶山稜の関係者 太郎の同級生


長い長い時の流れがあっても
残されているものがある
物にも、そして心にも

   31.民芸喫茶「山稜」にて(その1)

 淳子が手配した宿は、松本で一番古い歴史を持つ旅館だった。ビジネスホテルに泊まるより良いだろうと思ったからだ。
 1887年に建築されたその旅館は女鳥羽川沿いにあり、表は喫茶店になり、その奥に旅館の入口があった。
 旅館前の喫茶店「山稜」は、女鳥羽川に架かる橋を渡ったところにある。  その橋を渡ろうとした時、薬師太郎の足が止まり、動かなくなった。
 「父さん、どうしたの?」
 淳子が声を掛けた。
 「サンリョウ… じゃないか… 」
 太郎はしげしげとその喫茶店を眺めながらつぶやいた。
 「父さん知ってるの? まぁ故郷だものね。古い喫茶店だから知ってるよね。宿はこの喫茶店の後ろよ。」
 淳子は太郎に歩くように催促した。
 「通子、山稜だよ… 」
 「私は淳子! 通子は留守番! 」
 むっとして淳子は太郎に言い返したが、全く聞こえてないかのように太郎は喫茶山稜の入口に立った。
 「父さん、喫茶店は後でいいから、旅館へ先に入ろ。」
 淳子は太郎の手を引っ張ったが、太郎はまるで吸い込まれるかのように喫茶山稜の扉を開け、中へ入っていった。
 仕方なく淳子が続き、麻里と想井もその後に続いた。
 正面の席の壁には、新雪をかぶった槍ヶ岳と、朝陽に赤く染まる槍ヶ岳の写真が飾ってあった。

 太郎はその写真を眺めると、店内をゆっくりと見まわした。
 松本民芸家具の机と椅子が時代の重みを感じさせた。
 この時間、客はまばらだった。
 店員が立っている一つ奥の椅子にまるで支配人のような感じで座っている高齢の女性が、その太郎の姿を見つめていた。
 「お父さん、早く座ろ。」
 少し強張った表情で店内を見つめている太郎に、淳子が声を掛けた。
 槍ヶ岳の写真の下の4人掛けテーブル席に太郎は座った。
 淳子たちはコーヒーを注文した。

 その時奥の椅子に座っていた高齢の女性が立ち上がり、ゆっくりと太郎たちに近づいてきた。
 そして、太郎の前に立ち、笑みを浮かべながら声を掛けた。
 「薬師… 太郎さんでしょ? 」
 「はい? そうですが… 」
 太郎はその女性を見つめたが、思い出せないでいる。
 「私。谷川まさみよ。覚えてる? 」
 太郎は谷川まさみと名乗るその女性をじっと見つめたが思い出せないようだった。
 「あら、忘れちゃったの? いつも私のことをまさちゃんって呼んでくれたでしょ? 」
 「え~っと… そうだったかな… なんとなく知ってるような… ごめん、わからない… 」
 太郎は頭を下げた。
 「あ、いいのよ。もう50年以上も前のことだからね… 失礼しました。」
 谷川まさみは申し訳なさそうに頭を下げると、元の席に戻っていった。
 タイミングよく、コーヒーが来た。
 「お父さん覚えてないの? 」
 淳子が太郎の顔を覗き込んだ。
 「う~ん、なんとなく知ってる人のような気がするんだが… 」
 認知症の太郎にとっては苦しい時なのだと、麻里は太郎に気遣った。
 「でも素敵な喫茶店! 私こんな雰囲気の喫茶店大好きです! 」
 その麻里の声に、太郎がニコッとした。
 「そうやろ~ ここには昔よく来た。とても大好きな場所だったんだ。」
 と、明るく答えた太郎の表情に翳りが浮かんだ。
 きっと何か思い出深いものがあるのだと麻里は思った。「とても大好きな場所だったんだ」と言った太郎の言葉も少し気になった。

 静かにシューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」が流れていた。
 想井が山の話や松本市の話を聴いて、コーヒータイムの時間が流れた。
 太郎が話す山の話は特急電車の中でも何回か聞いた同じ話だったが、想井は初めて聞くかのように楽しそうに聞いていた。
 「さ、お父さんぼちぼちお宿に行かなくちゃ。」
 淳子は太郎の腰を上げさせた。
 「お金払うから先に外へ出ていてくれる? 」
 と、淳子は太郎に言い、麻里と想井に合図を送った。
 「薬師さん、それでは外で待ちましょう。」
 麻里と想井が太郎の背中を押すように出ていった。

 淳子は支払いをしながら、奥の座席に座っている谷川まさみを見つめた。
 その視線に応じるかのように、まさみは淳子のところまでゆっくり歩いてきた。
 「すいません、先ほどは。父は認知症を患っていまして、失礼しました。」
 淳子は谷川に頭を下げた。
 「そうだったの… 薬師さんの娘さんですか? 」
 「はい。薬師淳子です。」
 「そうですか。すてきなお嬢様。松本へは旅行ですか? 」
 まさみはやさしく声を掛けた。
 「父がどうしても故郷の景色を見たいというもので。」
 「そうだったの。それでここにも来られたのですか? 」
 「いえ、宿に行く途中だったんですが、父が思い出の場所らしくて引っ張ってこられたんです。」
 淳子のその言葉に、まさみは頷いた。
 「そうですか。お父さんにとってここは特別な場所なのよ。来てくれてありがとう。」
 まさみはやさしく微笑んだ。
 「特別な場所なのですか… あ、もしよければ父の話を聴かせてもらえますか? 今夜の宿は裏の「旅の宿山稜」なので。」
 「なんだ、壁ひとつ向こうの所じゃない。私はまだいるから、落ち着いたら来てちょうだい。」
 まさみは気さくに答えた。
 「ありがとうございます。」
 淳子は頭を下げ、喫茶山稜を出た。

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