32. 民芸喫茶「山稜」にて(その2)
「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」
第1話「彼方の記憶」松本編
【今回の登場人物】
立山麻里 白駒池居宅の管理者
想井遣造 居酒屋とまりぎの客 麻里の相談相手
薬師太郎 認知症の人 故郷が松本
薬師淳子 太郎の娘 旅行会社勤務
谷川まさみ 喫茶山稜の関係者 太郎の同級生
多くの年月は単に高齢者になるためだけにあるのではなく
その人にとって意味ある年月なのだ
しかし家族はその意味ある年月を意外と知らない
32. 民芸喫茶「山稜」にて(その2)
「旅の宿山稜」は「民芸喫茶山稜」のすぐ隣にある。正確に言うと、旅の宿山稜の一部として民芸喫茶山稜があるのだ。
旅館は明確な入口があるというのではなく、それとなくある入り口だ。
現在の建物は明治21年に建てられたものだったが、かつては乃木将軍も宿泊したこともあるといわれる松本市で最古の旅館だ。
最近は宿泊者の3割が外国人だという。
「二部屋取ってあるのだけど、想井さんと父とで大丈夫ですかね? それとも私と父とで泊まりましょうか? 立山さんは想井さんと同室で大丈夫ですか? 」
麻里は淳子のその言葉を半ばぼーっと聞いていた。
「はい。え? いや、それは困ります! 」
淳子はにたっと笑った。
「それじゃぁ、立山さんと父、私と想井さんでは? 」
「え?… そ、それもどうかと… 」
淳子は冗談が言えるくらい、すっかりと麻里と想井に打ち解けていた。
太郎はご機嫌だった。
松本市に住んでいたので、地元の宿になど泊まったことはない。
松本民芸和具が置かれた落ち着いた趣に、太郎の心も癒されたのかもしれない。
想井とはさっそく風呂に行く段取りの話をしていた。
「立山さん、私と一緒にもう一度喫茶山稜へ行ってくれますか? 」
淳子が真剣に聞いてきた。
「先ほどの谷川さん、父のことをとてもよく知っているみたいで。立山さんにも聞いてもらった方がいいかなと。」
「はい、わかりました。」
麻里にとっても太郎の話は気になった。
麻里は想井に事情を説明した。
想井は太郎と子どものようにはしゃぐので大丈夫と返事してくれた。
谷川まさみは待っていてくれた。喫茶は閉店時間が迫り、客はおらず、アルバイトの店員は片づけを始めていた。
「すいません、父のために待ってもらって。もうお店も閉まるのですよね? 」
「こちらこそ、疲れているところをごめんなさいね。お店のことは気にしないで。私はこの喫茶店のオーナーではないけれど、一応手伝いに来ている身なので、閉店後でも大丈夫よ。」
まさみは、気さくに答え、麻里を見た。
「あ、彼女は父のケアマネジャーで立山麻里さんです。東京から一緒にきてもらいました。」
麻里は頭を下げ、自己紹介した。
「わざわざ東京から。ケアマネジャーさんも大変ね~ 」
「いえ、私も来たかったので、大変なことではないです。」
本来のケアマネジャーは徳沢明香だが、説明が難しいので麻里は笑顔で返した。
アルバイト店員も帰り、店内は三人だけになった。
静かな喫茶山稜は、その時間の積み重ねの中にあった。まるで歴史がゆっくりと過去へ戻り始めているかのような雰囲気に包まれていた。
「私はね、薬師さんの高校時代からの同級生なの。」
「女鳥羽高校のですか? 」
「そう。だから顔見て私はすぐにわかったんだけど、50年経てばね~ 私もおばあちゃんになってるし、思い出せなくて仕方ないわ。」
「父も認知症でなければ、わかったと思います。」
淳子がまさみを気遣った。
「どうかしら? 」
まさみは笑った。
「その頃から私にとって薬師さんは憧れの人だったの。高校生なのに山をガンガン登って、かっこいい山男だった。だから私は薬師さんのファンだったの。」
谷川まさみは楽しそうに話を続けた。
「でもね、薬師さんには別に相思相愛の人がいてね。私はいつも蚊帳の外だったわ。」
淳子は母通子のことではなさそうだと考えながら、まさみの話の続きを聞いた。
「私はこの喫茶店のオーナーの親戚の子でね、学校が終わったらよくここへ手伝いに来てたの。そしたらね、高校生のくせに、私がいるからって、彼女をよくここへ連れてきてたのよ。」
そのまさみの話には、淳子や麻里が知らない薬師太郎の姿があった。
「まぁ、彼女と言っても、その子もあきちゃんという私の親友なんだけどね。」
淳子と麻里は黙々と聞いていた。
「あ、こんな話面白くないかしら。お父様の過去のことなんて聞きたくはないでしょ? 」
まさみは淳子に気遣った。
「いえ、大丈夫です。むしろ父のこともっと知りたいです。」
淳子はきっぱりと言った。
まさみはうなずくと、自分の頭の中の記憶の粒を一つひとつを拾い上げ始めた。